第94号

「若者支援」の共同構成
中田正敏

 先日、思うところあって久しぶりにデモに参加をした。若者が多く参加していて、自分の言葉でそれぞれ語っている。自分が若者であった頃、こういう場ではあるスクリプト(台本)に喋らされていたようにも感じた。今は若者が主体として立ち上がっている。新しい文化に出会ったような気がした。

 最近、「かながわ生徒・若者支援センター」の事業に関わっていることもあり、若者支援というコンセプトに興味をもっている。イギリスでコネクションズ・サービスという事業がある。13歳から19歳のすべての若者を支援の対象として専門資格をもったパーソナル・アドバイザーが1対1で相談に応じ、アウトリーチ中心の支援がその内容である。日本でも、これをモデルとして「サポートステーション事業」が開始されていて、年齢は15歳から39歳で、「家事も通学もしていないもの」を「若年無業者等」として、そのうち「職業的自立をはじめとした自身の将来に向けた取組みへの意欲が認められる者及びその家族」を対象として「自発的な來所」を原則としている。
 現場を多少は知っている立場からすると、おそらく自発的に來所することができる若者はかなり限られている気がする。
 一方、「『子供』の貧困に関する大綱」では、貧困の連鎖を断ち切るためのプラットフォームとして学校を位置付けている。具体的には、学校内外の資源を活用した学力保障と共に「学校を窓口とした福祉関連諸機関との連携」として、「地方公共団体へのスクールソーシャルワーカーを配置して、必要な学校において活用できる体制」、「一人一人、それぞれの家庭に寄り添った伴走型支援体制」を構築するため、諸機関の専門家と連携し、支援を充実させることが提唱されている。「高等学校等における就学継続」も課題となっており、「高校中退を防止するため、高等学校における指導体制の充実を図る。特に、学習等に課題を抱える高校生の学力向上、進路支援等のための人材を高等学校に配置するとともに、課題を抱える生徒の多い高等学校での優れた取組を推進」し、「高校中退者等について、学校がハローワーク等に対し高校中退者情報を共有する等により、就労支援や復学・就学のための情報提供の充実を図る」ことが提唱されている。

 学校で仕事をしている人は、学力と貧困の結びつきについては今まで知らなかったということはなく、様々な局面で出会うことがあっただろう。しかし、「プラットフォームとしての学校」は新しい設定であり、貧困等による複雑なニーズに対応するために、スクールソーシャルワーカー、就労支援のNPO等の専門職とどう連携するのか、という新しい課題を提起している。
 ところで、学校とはかなり複雑な仕事を担う教職員という専門職の職場である。専門職である以上は、専門性の一定の水準を確保するために標準的なもの(スクリプト)がある。一方、授業を担当する場合等には、児童・生徒とのあいだで複雑なやりとりという関係性があり、個々の状況に即した個々の思慮分別が確保される必要がある。標準的なものと思慮分別のあいだの独特なバランスに妙味がある。そして、児童・生徒との関係性と比較すると、同僚と緊密な連携をして仕事をすることは今まではあまりなかったとも言える。
 さらに、その上、最近では、本来はあまり複雑でない、ある意味では合理的にやればすっきりうまくいくような、つまり、技術的な改善によって解決するという考え方が入り込んできた。学校内の仕事については単純な業務改善で対応できることもあるにはあるのだが、かなり標準化路線が蔓延し、ついには、人を相手とする複雑な仕事にも誤って適用され、しかも、標準化路線は実際に仕事をする人ではなくて仕事の方法を考える人によって、上から外部からの動きによって進められている。標準化が及んではいけないし、そうなれば人を相手とする仕事に必要不可欠な個々の場面における思慮分別が脆弱化していくリスクが顕在化しつつある。現在、問題となっている「多忙化」とはこうした状況を言語化したものかもしれない。
 
 ともかくも、こうした複雑な学校組織の中に、新たに専門職が入って連携をすることになるようだ。学校組織に新たに参入する専門職にも一定の標準化されたもの(スクリプト)があり、それとの絶妙なバランスで思慮分別が機能する場が、教職員と同様に確実に保障されなければならないし、さらに、教職員も含めた多様な専門職のあいだで以前より緊密な関係性が構築されなければならないとすると、今後の展望を拓くためには、標準化と思慮分別のバランスがとれた組織となるように枠組みを拡張する必要がある。
 
 ケネスガーゲン著(東村知子訳)「あなたへの社会構成主義」(2004、ナカニシヤ出版)は、組織の中での日常的な対話が未来を構成するという枠組みを紹介している。具体的には、ある特定の支援対象となる人々への専門家のモノローグではなく、「支援される」当事者も含めたダイアローグ(対話)という関係性の中で新たな意味が生成するという考え方である。こうした枠組みでは、支援とは専門家の共同体の中で構成された標準的なスクリプトにしたがって処方されて提供されるものではなく、対話的な関係性の中で共同構成されるものである。
 
 これはパラダイムの転換である。支援の対象が支援の共同構成の主体になるからである。おそらく、こうした枠組みでは、「支援の対象」としての若者が自分の言葉で自らを語るであろうし、それを前提として、異なる専門性をもつ専門家のあいだの真の協働も成立する。つまし、ダイアローグは当事者と専門家のあいだだけではなく、様々な領域の専門家の間の関係性が成立し、それぞれの標準化されたスクリプトを見直し、共通のスクリプトをつくる契機となるような可能性がある。これもまた、新しい組織文化の創出の萌芽であるに違いないと思う。
(かながわ生徒・若者支援センター共同代表)


学校図書館は、今・・・「ある学校司書の日々雑感」
井上晴子

 猛暑だった今年の夏も過ぎ、この号が出るころにはすっかり秋になっているのだろう。
神奈川の県立学校図書館には、閲覧室を除きエアコンが入っていないところが多いので、この夏も各校の学校司書は、熱中症との闘いにあけくれたのではないだろうか?本校図書館も多分にもれず灼熱の日々を過ごし、室内のガラス窓に貼っている装飾が溶けてしまった。(写真参照)「日が当たる場所でもないのにな…」と図書委員が不思議そうにつぶやきながら掃除してくれた。その他にも「プラスチックのカードケースが溶ける」「前日に迷い込んだ虫や鳥は次の日には全滅」など事例をあげたらキリがないが、そんな環境のなかでも働いてくれる生徒がいるから司書は頑張っていけるのかもしれない。
 8月の終わり、鎌倉市図書館の司書のツイートが話題となった。「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。…」
各種メディア、行政も巻き込んでの大きな話題になったが、私は少し違う観点で見ていた。学校図書館は、図書館法の対象外だから図書館じゃないと言われることがある。公共図書館と学校図書館の役割は違うと言われることもある。でもこのツイートを読んでやっぱり学校図書館も図書館であり、図書館の役割は共通しているのだと実感した。ずいぶん前から学校現場では、授業に出られない、教室に入れない生徒の保健室登校・図書室(図書館)登校が認知されてきた。学校図書館で楽しそうに本やマンガを読んで司書にも薦めてくれる生徒が、実は教室では一言もしゃべらない生徒だったり、授業には出られないけど、その分の課題を一生懸命作成している生徒の手伝いをしたり…。図書館なりの見守りを行っている。鎌倉市図書館の呼びかけは、司書として同じ気持ちなんだなということを再認識させてくれた。心の居場所、心のよりどころとしての役割も共通していることが嬉しかった。学校に来られる子は、学校図書館でも見守ってあげられる。
でも学校に来ること自体が苦しい子や卒業したり辞めちゃったりした子は、どうするのだろうと常々思っていた。そんな人たちの身近にある公共図書館が心の支えになってくれるなら安心して生きていけるよと伝えたい。鎌倉市図書館は、後日「つらいきもちをかかえているあなたへ」と題した別のツイートも発信している。
 今年度、神奈川県では17年ぶりに正規職員としての学校司書が採用された。学校図書館界(?)にとって全国的にみても数少ない正規職員での採用は、久しぶりに明るい話題だった。長年にわたる神奈川での学校司書の実践が認められたのかなという自負と学校図書館に対する教職員の協働協力のおかげという感謝の意を表したい。新採用の司書には、ぜひともフレッシュな感覚を思う存分発揮してもらい、神奈川の学校図書館に新風を吹き込んでくれることを期待している。一緒にがんばろうね。
(横浜旭陵高等学校)


書評と紹介
ジュリアン・バジーニ著
『100の思考実験』
紀伊国屋書店 2012年3月刊

 あなたは思考実験をしたことがあるだろうか。思考することは、人間にとって大きな利益をもたらす。なぜなら、自分がどのように生きるかにつながってくるからである。
 もし、“コンピュータが人間よりも確実に正しい判断をする場合、大統領などの一国のトップをコンピュータに任せるか”、という質問を投げかけられた時、あなたはどのような反応をするだろうか。「コンピュータは時々バグを起こしたり、故障したりするから任せたくない」、また、「そのコンピュータを利用して誰かがなにか悪いことをするかもしれない」などコンピュータを利用する際のリスクについての意見が出るかもしれない。しかし、そのようなリスクが全て解消されたとしたら、また、そのようなリスクを出すほどコンピュータが愚かでないとしたら…、そうであったなら、あなたはコンピュータに国の政治を任せるという判断を下すだろうか。そうだとしても、ここで「イエス」と言う人はおそらくほとんどいないだろう。たとえ、人間の判断が“間違って”いたとしても。
 倫理的に正しいこととは、必ずしも人間が受け入れやすいものではない。更に“正しさ”というものにも様々ある。ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」こそが“正しさ”である、という考え方もある。しかし、少し考えてみれば、この「多数の意見が正しい」という考えは極めて危険であるということもわかる。マイケル・サンデルが「これからの正義の話をしよう」の中でも言っていたように、この考えは少数派として生きている者の意見を全て抹殺することにも繋がりかねないからである。
 思考実験には絶対の正解というものはない。
本書の思考実験は実際の世界で起きた同じような事例がいくつもある。もちろん、それらの中には何らかの判断が下されたものもある。しかし、様々な面からみると、その判断すらも正しかったかどうかわからないのである。
 「11 わたしがするようにでなく、言うようにせよ」では、1人の人間の行動は、全体には大きな影響を与えないことについて思考を求めている場面がある(この思考実験はそのことについてだけの思考を求めているわけではないが)。確かに、全体が行っていることに対して、私たちの中の1人がやらなかったからと言って大きな影響はない。言ってみれば、選挙なども同じである。近年の日本の投票率の低さはそんな個人一人一人の「私が何を言っても、何を行っても世界は変わらない」という気持ちからきているのかもしれない。しかし、18歳の選挙権が認められた今、若い人の政治参画が求められている。それは同時に大人にも国民主権を考える機会が与えられた。そんな中で、一人一人の人間が「自分は知らない、やらない、関係ない」はもう許されない。本書は人間が新たに思考することだけでなく、“再び”思考するためのテキストなのかもしれない。
 考えることは人間の本質である。かつてパスカルも「人間は考える葦である」と言い、「人間の尊厳のすべては考えることである」、「考えが、人間の偉大さを作る」とした。考えなければ人間としての価値を疑われてしまうのならば、私たちは世の中に目を背けてはいけない。必死に考えることにより、人間という形を保たなければならないのだ。
 さぁ、“あなたはどこまで考えられるか。”
(藤沢総合高校 松長智美)

仁藤夢乃著
『難民高校生』絶望社会を生き抜く「私たちのリアル」
英治出版 2013年3月刊

 最近、「○○難民」という言葉を目にすることが多くないだろうか?
ネット検索しても、「がん難民」「昼食難民」等いろいろと出てくる。「難民高校生」という言葉から、どういった生徒を思い浮かべただろうか。今までに出会った生徒、今現在関わっている生徒の顔が思い浮かんだだろうか。
 この本の帯に、「ずっと気づいてほしかった。」とある。著者は、現在は女子高校生サポートセンター・Colabo代表理事として「居場所のない高校生」や「性的搾取の対象になりやすい女子高校生」の問題を社会に発信するともに「若者と社会をつなぐきっかけの場づくり」事業を展開している。しかし、自身が高校時代は髪を染め、学校にはろくに行かず、渋谷で月25日過ごす「難民高校生」だった。家族が崩壊し、将来の夢もなく、勉強する目的もなく、高校での勉強に意味を感じず、葛藤の末に高校を中退した。渋谷で多くの時間を過ごしていた頃の友人も、「自分たちの気持ちはどうせ言ってもわかってもらえない」と同じ思いを持っていた。その後、高卒認定試験の予備校で講師の元高校教師との出会いから、農園での共同作業や海外での難民支援、ボランティア活動など様々な経験や出会いを通して、「なんとかしたい」と思うようになった。農園タイムスに「のうぇん。楽しかった。虫。」としか書けなかった彼女が、大学入試で「多くの人と関わり、…社会の中で人の心の動きを考え、問題の原因を突き止めて行動できる大人になるために、貴学の社会学科への入学を希望します。」と書くまでになった。東日本大震災後には、石巻の製菓会社と女川高校の生徒と協力して「たまげ大福だっちゃ」を開発し、被災地の「自分たちも何かしたい」けれど、どうしていいかわからない高校生の思いと「何ができるかわからない」全国の人々の思いをつなぎ、支援に結びつけていった。
 私は、保健室で高校生と接する仕事をしている。内科的・外科的対応の他に「眠れなかった」、「なんだかわからないけどとにかく気持ち悪い」という訴えから、突然の雨でずぶ濡れの子の着替えの心配まで、よろず駆け込み寺である。来室記録を書きながら、生活の様子を聞いたり、時には家庭の様子も聞いている。生徒の中には、問われるままに気になっていること、恋愛の話、愚痴を話し始めたりすることもある。しかし、どれだけ彼らの心の思いを聞くことができているだろうか。授業に戻そうとしても、なかなか腰を上げようとしない生徒がいる。一日に何回も来室する生徒がいる。保健室は、授業中であっても使いたいときに、生徒が自分の理由で来室できる部屋である。だから心身に「何かある」生徒が来ているはずだ。でも、である。
 身近にやる気無さそうそうな(そう見えてしまっている)生徒はいないだろうか。「若者の問題」は、大人が作っている「大人の問題」でもあるという。大人は自分達と切り離して考えてはいけない。著者は高校生と大人をつなぐ若者として、大人に「個として向き合ってほしい」「可能性を信じる」大人として頑張っている「姿勢を見せる」、ということを望んでいる。「本当に大人に期待していなかったら大人に文句なんて言わないし、反抗的な態度はとらない。わかってほしいという気持ちの裏返しや、やり場のない想いを発散するためそういう行動をとってしまうのだ。」と。生徒がなぜそういった言動を取るのか、当たり前ではあるが、人への興味関心、可能性を信じる事、自分の中のやる気が、人を相手とする私たちの仕事の原点であると確認した。
(百合丘高校 養護教諭 根本節子)


映画時評
ふたつの「日本のいちばん長い日」

 「日本のいちばん長い日」を観た。リアルタイムの邦画は滅多に観ない。しかし今回は、旧作「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督、1967年)に衝撃を受けた者として、劇場に足を運ばずにはいられなかった。原田真人監督は、あの完璧とも言える旧作に一体何を付け加えたくて撮ったのかを知るために。
 二作が決定的に違うのは、旧作では演者も観客も、全て戦争を身を以て体験しており、さればこその凄まじい迫力でたたみかけて来る点だ。2008年の鑑賞当時、手帳に貼り付けた配役表によれば、三船敏郎、笠智衆、志村喬といった主役級の役者はもとより、端役に至るまで文字通りのオールスターキャストである。手帳のメモでは、「1967年当時はこの配役で、この題材の映画が撮れたのだ。」という感慨に加え、宮城事件で決起した青年将校たちが近衛師団長を殺し、その名を使って命令を出したなどといういきさつを知らなかったことを恥じてもいる。一方新作では、誰も戦争を“知らない”中で、事件を描かなければならない。演じる側に要求できるレベルも違う。とすれば、今だからこそできることは何か。 
 時代と共に忘れ去られるものがあるならば、時代が進むにつれ、見えて来るものもある。原田監督が意図したのは、ソクーロフ監督の「太陽」(皇后役の桃井かおりの演技が印象に残る)に触発されたという現身(うつしみ)の天皇の姿とその言動を描くことと、登場人物それぞれの背後にある“家族”という要素だった。“あの日”の人々と現代の人々の感性を、“家族”という共通項で括って繋ごうとしたのである。だから阿南大臣は子どもたちを風呂に入れ、鈴木首相の不自由な体には、いつもたくさんの家族が手を添える。あまりに現代的過ぎて、違和感を感じる場面もありはするが。
 監督の大きな目的は、若い観客や出演者に当時の実状を知らしめることだろう。現に、畑中少佐役の松坂桃李は完成した作品を観て、戦争の「怖さを知らなかったことに対する怖さというのも強く感じました。」とインタビューで語っている。
 家族描写に力を入れたために、旧作の息詰まる緊迫感は失われているし、時系列に従っているのにもかかわらず、何が起こっているのか知識の無い者にはわかりにくい。けれども本作をきっかけに若い人たちが当時の状況を想像し、薄氷を踏みつつの戦争終結であった、と知るだけでも意味がある。
 同様の意味で、この夏に観たドキュメンタリー作品をどうしても紹介したい。「それでも僕は帰る シリア 若者たちが求め続けたふるさと」。人口2000万人強(2011年現在)のシリアでは、国内避難民425万人、国外に脱出した難民は220万人(2013年)。2015年には、難民だけで400万人以上という統計もある。それは、死の危険にさらされ、それでも生き延びて国外に出た人々の数である。
 カメラは脚色する余裕も無く、主人公バセットの周りで次々に起こる事実を映し出す。おびただしい死。凄まじい砲撃。子どもの死。一瞬映る拷問室。親友の死。――家族と共に過ごす安息の中では輝くような笑顔を見せる青年が直面するこれらの映像は、フィクションではない。観客は、再構成された“現実”ではなく、正真正銘のリアルな現実の中に放り込まれる。ここにあるものを、純粋に映画作品としてのみ論評することは、不可能だ。観客は自身の日々の生とバセットのそれとの落差に呆然とし、自分にできることは何かを考え始める。
 このように、目の前にある現実を突きつけて迫るのも映画の使命なら、過去を復活させ、検証して眼前に差し出して見せるのも同様である。新作「日本のいちばん長い日」は、過去を語る方法の可能性を提示して見せることに成功したといえるだろう。
(逗子高校 松長裕美)


今はなき大船工技
 大船工業技術高校(大船工技)の閉校から今年で12年が経過した。私の赴任したのは1997年4月である。男子ばかり(実際は女子も若干名いたが)の小規模校(1学年3クラス、全9クラス)、その程度のことしか知らなかった。その当時すでに閉校のうわさがあり、どうなるのだろうという多少の不安はあった。学校は大船駅の北西側で鎌倉市岡本にあった。付近には工場やマンションが立ち並び、その中にひっそりとたたずみ、お世辞にも活気のある学校とは言えなかった。今となっては跡地が学校だったのか、それとも、工場だったのかわからないという人もいるようだ。数年前にたまたま来て見るとそこには立派な病院が建ち、工場の跡地には大規模なショッピングモールができて風景は一変していた。ある卒業生がこの病院に来た時に、母校のあった場所だと気づいて驚いたとか。
 私は普通科の職員(現在は退職している)であり、工業科について詳しいことはわからない。が、最後に居合わせた者として、その変遷をささやかながら綴ってみたい。大船工技の前身は大船技術高校(大船技高)である。綿引光友「技高は二度、『廃校』となった」によると、技高は4年制で県下に7校あり、いずれも県立職業訓練所に併設する形で発足したという。技高生は「一昼二夜」(2年生以降は1週間のうち1日は昼間、2日は夜間)と呼ばれる登校形態であった。一方、職員は4日は昼間、2日は夜間の勤務形態であった。学年ごとに登校日が異なるため全員が揃うことはなかった。大船技高は1963年4月に開校され、1976年3月に他のすべての技高とともに閉校となった。志願者が減少したことと新学習指導要領に対応するためであった。
 1973年4月からは大船の他、相模原、平塚西の3校が全日制工業技術高校として発足する。工技の特徴はいずれも技能者養成のための実習に力点をおいた学科を設置していることである(大船の場合には機械科と電子科のち電気科と改称)。午前から実習が行われる日には普通科の職員の授業がないといったように変則の時間割であった。工業科の職員数は比較的多く、生徒一人一人に目配りできるという印象を受けた。たとえば、鋳造や鍛造、旋盤などといった実習では生命にかかわるような危険な作業を伴う。したがって、生徒の一挙手一投足に常に気を配らねばならない。実習を通じて生徒の中には専門分野に興味を持ち、資格取得を目指したりする者もいた。
 新校設立準備委員会は藤沢工業高校(藤工)との間で開かれた。大船工技は2001年度に募集停止となり、創立30周年となる2002年度末の閉校が決まった(同時期に平塚西、2年後に相模原がそれぞれ閉校となる)。最後の学年の生徒たちが卒業していくと、3月下旬には閉校式が行われた。その間にも校内の備品が、その多くは藤工へ、一部は他校からの求めに応じてあわただしく搬送された。職員は備品の搬出や大量の廃棄物の処理に追われる日々であった。藤工の校内の一角には大船工技を記念して資料室が置かれている。技高時代を含めての記念誌やアルバム、各種賞状やトロフィなどが収められている。そして、翌月藤沢工科高校として藤工の地に第1回新入生を迎えた。
(大船工技旧職員 秋末一政)


新刊図書
「専門家として教師を育てる(教師教育改革のグランドデザイン)」岩波書店 佐藤学著
 グローバリゼーションと知識社会化が急速に進む現在、各国において教師に対する政策は主要テーマであり続けてきた。その結果、国際比較でいうと、現状で日本の教師の学歴水準は開発途上国並となり、世界でも最低レベルになってしまった。加えて多忙化や学校組織の自律性が著しく低いことも問題である。かっては世界でもトップレベルだった日本の教師の質をもとに戻すためには必要な改革は何か。特に教員免許のあり方の制度設計とはどういったものかといったところを中心に教育学者の第一人者が論議を呼ぶ提言を行った書である。
「沈黙の国から来た若者たち」文芸社 原田房枝著
 在オーストラリア35年、留学生支援学校で多くの高校生と接してきた著者は、日本の家庭と教育の問題点――何が優れ、何が劣っているのか――を鋭く分析する。そして、留学は帰国後こそが難しいと指摘、違いを得るために送り出すのであれば、違いを受け入れる覚悟が要る。社会全体とシェアし還元できることで、留学は真の意義を持つものとなるという論説は本質をついている。 
「ピケティ入門(『21世紀の資本』の読み方)」金曜日 竹信三枝子著
 (著者のコメント)ピケティについて、日本の格差を取材してきた記者の目からわかりやすく書いて欲しいという要請がありましたのでこの本を出しました。選挙を前に、アベノミクスをピケティを参考に分析してみたらどうなるのかについても論考しています。「格差は放置すれば拡大するもの」というピケティの論が、だから格差は当然、と読み替えられかねない日本の空気の中で、そうしたすり替えに待ったをかけたいという思いがありました。ご関心があれば一読ください。
「『慰安婦』問題と戦時性暴力(軍隊による性暴力の責任を問う)」法律文化社 髙良沙哉著
 日本と植民地支配との関係、裁判所・民衆法廷が事実認定した被害者・加害者証言の内容、諸外国の類似事例との比較から被害実態と責任の所在を検討。戦時性暴力の視座から単なる「強制の有無」の問題にとどまらず「制度」の問題であることを強調した書である。


最近の教育関係雑誌より
 県民図書室で定期購読入している雑誌を紹介します。これらの雑誌は県民図書室前の廊下の書架に並んでいます。ぜひ手にとってご覧下さい。

☆『季刊フォーラム 教育と文化』(国民教育文化総合研究所)
☆『くらしと教育をつなぐ We』(フェミックス)
☆ 教育科学研究会編集『教育』(かもがわ出版)
☆ 日本教育学会 『季刊 教育学研究』
☆ 季刊教育法(エイデル研究所)
☆ POSSE(NPO法人POSSE)
☆『学校図書館』(全国学校図書協議会)
☆『教育再生』(日本教育再生機構)
☆『季刊 人間と教育』(旬報社)
☆『家族で楽しむ 子ども農業雑誌 のらのら』(2015年秋号 農文協)
☆『DAYS JAPAN』(発行編集:広河隆一)
☆『世界』(岩波書店)
☆『切り抜き情報誌 女性情報』(パド・ウイメンズオフィス)
☆ 月刊 高校教育


余瀝
 高校再編計画が発表になり、また多くの高校度が姿を消すとのこと。県立高校への希望者の数から考えると減らす必要があるのか疑問である。また、自分たちの卒業した母校がなくなる若者達に、故郷や国へのアイデンティティを持たせることは可能とこの施策をすすめる人たちは考えているのか?
編集 県民図書室 石橋 功