第91号

戦争を語り継ぐこと
矢野慎一

 敗戦後69回目の暑い夏は、安倍内閣による集団的自衛権行使容認の閣議決定で始まった。日本が再び戦争をする国になるのか、それとも平和憲法を守りつつ、21世紀の国際社会の中で独自の地位を占める国になるのか、後世から見てこの夏は大きな分水嶺となるに違いない。本稿では、こうした動きに対して私たちには何ができるのか、また何をすべきなのかを考えてみたい。
 筆者は「戦時下の小田原地方を記録する会」の一員として、地域の戦争を記録する運動に参加してきた。しかしながら、69年の歳月は確実に人びとの戦争の記憶を風化させている。平和憲法を守るためには、あの戦争の真実を語り継いでいくことが不可欠であり、そのためには歴史学研究、歴史教育と共に、戦争を記録する運動の果たす役割がきわめて大きい。神奈川には1970年代より継続して活動してきた戦争記録運動団体がいくつもある。戦争を記録する運動とは、日本と地域の戦争をめぐるさまざまな事象を記録して、社会に向けて発信することを主な目的とする運動である。もちろん個々の運動は多様であるが、本稿では「戦災・空襲」「銃後の生活」「戦争遺跡」の調査と研究をテーマとする神奈川の運動団体を紹介したい。
 日本における本格的な戦争記録運動のおこりは、1960年代末から1970年代はじめにかけて始まった「空襲・戦災」を記録する運動である。その頃全国で設立された運動団体は、約80にものぼると言われている。時代背景として、米軍による北爆とベトナム戦争があったことは周知の事実であり、空襲体験者が自らの体験と北爆とを重ね合わせたことが運動の始まりだったのである。
 神奈川では、まず1945年5月29日の横浜大空襲と、米軍占領下の横浜の記録運動に取り組んできた「横浜の空襲を記録する会」がある。1971年に結成された本会は全国でも有数の長い歴史をもち、1975~1977年には『横浜の戦災と空襲』(全6巻)を編集・発行した。本書は現在でも空襲研究の基本的な文献として高い評価を受けている。それ以降も着実に活動を続け、現在も毎年5月29日に横浜大空襲を語り継ぐ会を催している。
 
「平塚空襲を記録する会」は、時代がやや下って1989年に発足した。1945年7月16日の平
塚空襲は、一夜に投下された焼夷弾量(447,716本)が、八王子空襲に次いで国内で2番目に多いという激しい空襲だった。平塚の戦争と空襲に関する資料の収集と体験の聞き取り、戦災地図の作成などを活動の中心としている。現在も多くの記録出版物を刊行し続けている。1970年代後半から1980年代になると、全国で「銃後の生活」の調査が進んだ。これは銃後に暮らした庶民にとっての戦争を記録する運動で、神奈川で聞き取りという手法にこだわって戦争を記録してきたのが、「戦時下の小田原地方を記録する会」である。本会は1979年に結成され、これまで聞き取った体験には、空襲、箱根の外国人、傷痍軍人、学童疎開、学徒勤労動員などがある。1990年代後半からは、神奈川県西部の本土決戦陣地跡の調査にも力を
入れている。会誌『戦争と民衆』は現在73号を数え、また多くの出版物を刊行している。
 1990年代は「戦争遺跡」の調査が活発化した。すでに神奈川では、1980年代中頃から地域の戦争遺跡の掘り起こしが盛んとなっており、「陸軍登戸研究所」や「日吉台地下壕」の調査が進んでいた。
「陸軍登戸研究所」(川崎市多摩区)は、細菌兵器や風船爆弾など特殊兵器の開発と贋札の製造を行う秘密研究所であった。高校生や市民の調査によってその全貌が明らかとなり、さらに明治大学生田キャンパス内に残る研究棟の保存運動を契機として、2010年には「明治大学平和教育登戸研究所資料館」が開館している。
「日吉台地下壕」(横浜市港北区)は、慶應義塾大学日吉キャンパス内にあった海軍の連合艦隊司令部地下壕とその他の海軍関係地下壕の総称である。1989年に発足した「日吉台地下壕保存の会」が、保存運動を進めると共に見学会を開催し、毎年千名以上の見学者が訪れている。
 以上のような団体による運動の成果は着実に蓄積され、社会に受け入れられている。しかし、筆者が今後ますます重要になっていくと考えるのが、運動団体と教育現場との連携である。敗戦後長い間、戦争は社会や家庭で語り継がれてきたが、残念ながら現在は戦争を学ぶ機会が学校教育の場に限られてしまっている。そのため学校における平和学習の重要性はさらに増している。例えば小学校では、教科書の教材を通して戦争を学ぶ。ところが、教える教師自身が戦争に対するリアリティを感じられていない。そうした教師への支援において、地域の運動団体が果たす役割は大きい。さらに中学・高校の歴史教育や平和学習においても、運動の成果がもっと取り込まれていくべきである。
 現在のような時代状況だからこそ、歴史学研究と戦争記録運動の成果に裏打ちされた歴史教育をさらに進め、戦争の真実を語り継いでいくことは、教師にとって重要な使命であると考える。また戦争記録運動を、今後も継続していくことも大切である。日本が国際社会の中で平和国家としての立場を推し進めるためにも、このような地道な活動が大きな意義を持つことになるだろう。
(柏陽高校)

学校図書館は、今・・・1冊とひとりを結ぶ ~にのりぶの日常~
池谷晶子

 二宮高校図書館(にのりぶ)は、生徒昇降口の真上の2階というアクセスのいい場所にある。だが、さまざまな利用者に活発に利用されている、とはまだまだ言いがたい。どうしたら来たいと思えるか、そして実際に足を運んでもらえるか。本校でも、廊下まで使って展示をしたり、バルコニーにパラソルを出して食事場所を提供したり、いろいろなことを試みている。やっと来館してくれても、いい場所に座れないと帰ってしまうので、どの席も落ち着くようなレイアウト作りに悩んだりもしている。
 そしてもちろん、来館した利用者が思わず手に取りたくなるような本をできるだけ用意したい。司書や生徒が選ぶ毎年1000冊弱の本は、やはり誰かに開いてもらってこそ、価値があるというものだ。試行錯誤の毎日の中で、本と利用者とが結びついたささやかなエピソードを紹介する。
 7月に、『東宝特撮全怪獣図鑑』(小学館2014)を購入した。当初購入予定はなかったのだが、たまたま書店から届いたチラシを見た男子生徒が、本の表紙の怪獣を「これは○○、これは○○…」とほぼ言い当てていったのだ。入れないわけにはいかない。夏休み明けに見つけた彼は、「買ったんですね!」と喜び、丹念にページをめくっていた。「でも、これは重くて借りられないですねえ…」「ま、無理して持って帰らなくてもね、図書館でじっくり見てよ」ということで、この本は読者を得た。よかった、と思っていたら、今度は女子が「あ!この本、欲しかったんだけど買えなかったの!私のために買ってくれたんですね!」と言い出した。「…えっと、別の子のために買ったんだけど、こういうの好きなの?」「そう、嬉しい、ありがとう!」彼女も丁寧に見ていき、これで2人目。さらに別の男子が、「これすげえ、テレビでやってたやつも載ってる。東宝だから、まあ限られてはいるけど」。そうだ、この子、特撮や映画が好きなんだった。ソファで背を丸めて読んでいった彼は、別の機会に、友達にもこの本について教えていた。この本は、今後、貸出につながることはあまりないかもしれない。けれど、少なくとも3人の生徒が手に取り、楽しい時間を過ごしたことを司書は知っている。利用者のダイレクトな反応を見られるのは、何よりの喜びだ。
 棚にありながらも動きのない本と利用者を結びつけられた時も、とても嬉しい。2学期に入ってすぐ、時々来館する女子生徒が、友達に「ねー、なんか面白い本ない?」と聞いていたのだが、その友達は即座に「ない!」ときっぱり。これは放っておけない。「こらー、面白い本ないとか言うなー」「えー、だって分かんないんだもーん」「司書さん、何か面白い本ないですか?推理小説じゃないやつで」ということで、いろいろ話すうちに瀬尾まいこさんの本を薦めてみることに。「瀬尾まいこさんの本って、扱うテーマは重いんだけど、会話が楽しくってすいすい読めるよ。虐待の話とか、家族が解散しちゃう話とか、自殺しちゃおうと思って宿に泊まるんだけど、そこで人に出会ってうんぬん、とか…」「あ、それにします!」というわけで、「もし合わなかったらまた考えようね」と言いながら『天国はまだ遠く』(新潮社2004)を貸した。彼女は後日、「面白かったです!お母さんも読んで面白かったって言ってました」と報告してくれた。
 これからも、1冊とひとりを結びつける地道な努力を、直接的・間接的にしていきたい。展示の仕方、待機の仕方、話しかけるタイミング、話し方、いつも迷いながらの日々だ。だが、利用者とのやりとりに必ずヒントはある。そう信じて、今日もカウンターに立つのである。
(二宮高校)

書評と紹介
大阪大学歴史教育研究会編
『市民のための世界史』
大阪大学出版会 2014年5月刊

 本書は、大学教養課程の世界史教科書として編集されたもので、書名にある「市民」(人民でも民衆でもなく)とは、「将来市民となるであろう学生」のことを指している。大学の教科書というと、教員の専門分野に関係する概説書という印象が強いが、本書では古代文明の形成から2011年の東日本大震災までが叙述の対象となっている。また、大阪大学の得意分野である内陸アジア史や海域アジア史、そして「近代世界システム」論を踏まえた叙述となっており、新しい世界史の概説書ともいえよう。
 高校世界史の教科書と比較すると、書かれている用語(事項)数を大幅に減らし、各時代・地域の社会構造や文化の概要、そして諸地域間の関係性を重視した記述となっている点が特色としてあげられる。たとえば、ローマ帝国については、カエサルとオクタウィアヌス以外の人名を用いずにこの時代を概観している。また、世界史におけるアジア諸地域の役割を意識した、すなわち「進んだ(豊かな)ヨーロッパ」と「遅れた(貧しい)アジア」という二項対立からの脱却を意識した記述も特色の一つである。それゆえ、いわゆる「大航海時代」についても、その前提となるアジア海域の活発な交易関係からの連続として捉えた記述となっている。さらに、各時代における日本(列島)に関する記述は、本文ばかりでなくコラム(「日本的伝統」の成立;第2章、「日中貿易の担い手たち」;第5章、「日本軍が残したもの」;第11章など)も含めて充実しており、「日本」を含めた「世界史」の構築を模索する編者の意欲を感じることができる。
 高校教員にとっての本書は、これまでの教材研究や授業実践の内容を振り返り、そして再構築するための貴重な参考書として位置づけられるであろう。筆者に関して記すなら、ここ10年ほど歴史学における新しい研究動向やその成果についての情報を積極的に収集してきたが、それらを体系化する際の参考にすることができた。また、高校世界史では、大学受験(だけにその責があるとは思わないが)との関係がある以上、一定の用語(人名・事件等)を暗記することは避けられない。それらを受験が終わってからも有用な知識として残すためには、どのような授業が有効であるのか、ということを考える際のヒントになるであろう。本書では各章の冒頭などに様々な問いかけが記されている。その中には、『「鎖国日本」をはじめ、大航海時代以後のアジア諸国は「世界の動きをよそに」「眠り込んで」いたのだろうか?』(6章)、『19世紀末に進んだ世界の一体化と、現在のグローバル化にはどんな共通点があるだろうか?』(9章)、『日本が戦争した相手はアメリカだけだったのだろうか?』(11章)、『第二次世界大戦後長い間、社会主義はアジア・アフリカで人気があった。その理由はなぜか整理してみよう。』(12章)など、これらの問いかけは「暗記科目」としての世界史を超えるための導入に利用できる可能性が大であろう。さらに、「大学での専攻は歴史ではないが、自身の受験科目が世界史だったから世界史教員になった」「他科目の採用だが必修なので世界史の担当が回ってきた」という先生方にとっては、「世界史」を構造的に捉える一つの指針として本書が役立つかも知れない。
 最後に、次に記す2つの問いかけは、我々、高校の社会科教員すべてに対する問いかけでもあることを指摘して拙文を結びたい。『歴史というのは(1)すでにわかっている(=動かない)過去のことを、(2)暗記するだけの、(3)現在や未来とは関係のない(=役に立たない)科目だろうか?』(序章)、『歴史学者は、本ばかり読んでいる「浮き世離れした」人々だろうか。歴史学など学んでも、就職の役に立たないのだろうか。』
(大師高校 澤野 理)

KEU編集委員会編
『KOJIEGONUEKIWORKS&VOICE』
KEU編集委員会2006年12月刊

 藤沢西高校前のバス停に降り立つと校舎壁面いっぱいの表情豊かな顔々々が出迎えてくれる。見る者全てに語りかけ、元気を、慰めを、心を映す鏡の様に気づきを……その時々に何ものかを与えてくれる。「壁画の西高」として親しまれている大壁画である。約140面の壁画が校内の至る所に描かれ、現在も制作が続いている。学校では他に類を見ない。その一面一面に描き手の生徒の幾多のドラマがある。県の財産である校舎に壁画を描くという奇跡にも近いことを可能にしたエネルギーとドラマがある。それらから醸し出されるものが“この学校は他にはない何かを与えてくれる”という希望を感じさせ、それが学校全体の空気となり伝統を作り上げている。
 この壁画を指導したのが美術担当の故植木孝二教諭である。遊学中のニューヨーク・ソーホーに新たなアートの芽生えを確信して壁画の指導を始め、茅ヶ崎高、横浜日野(現南陵)高、そして1998年に赴任した藤沢西高で大きく開花する。美術室廊下の壁面から始まり、2000年には植木氏と生徒の思いを中核に、必ず実現させたいという周りの生徒、職員、保護者の思いが、学校を生徒が主体的に生き生きできる場にしたいという校長の思いに通じ(校長は何度も県に足を運んだ)、一体となって3、4階にわたる大壁画を可能にした。
 オーストリアの画家・エゴン・シーレを愛する植木氏にとって、創造とは自己を見つめ、己の中に葛藤を生み出し、苦しみぬいて高めていく営みであり、そこから生まれる一本の線の大切さを説いていた。壁画も原画制作から完成までに、描く生徒の内面に葛藤を生み、何度も植木氏とぶつかりあってその芸術性を高めていった。
 植木氏の一日は、5階の美術準備室の窓から眼下の墓園に眠る若き教え子への合掌から始まった。細やかな心遣いのメッセージは読む者の心を打ち、情熱的な指導は生徒とぶつかることもあるが、時を経て伝わっていった。準備室に行くと、どんなに忙しくても手を止めて入れてくれるコーヒーとお菓子。味わいながら本音で語り合い、悩みを聞いてもらった生徒、職員がどれだけいたことだろうか。行事の後の反省会では、いつも手料理で楽しませてくれた。温かい心は世の中にも注がれ、地球環境に優しい生活を実践していた。お酒の席でのエピソードももちろん。休日の自宅は卒業生でにぎわい、季節の集いを大切にした。人を愛し人に愛される植木氏であった。
 2003年夏、病変が見つかり、入院、退院、自宅療養。2005年1月、二度目の復職が叶う。全身の激痛、不眠、一日一食の体でも生徒と共に生きたい、伝えたいと声をふりしぼり4月に50歳で亡くなる9日前まで授業を続けた情熱は皆の心を打った。先生らしいお別れをと斎場は卒業生の手で植木氏のFRP彫塑作品で飾られ、植木氏を乗せた車は、大壁画の前のバス停で停まってクラクションを鳴らして別れを告げた。
 その後、植木氏が歴任した3校の教え子たちが制作したのがこの本である。「WORKS」は植木氏の創作の軌跡の写真集。「VOICE」は幼馴染、友人、教え子、同僚からの追悼文集、写真や語録も収録。教え子たちとの心のふれあいは、生徒が生き生きできる学校とはどういうものか、それはどのように作られていくのか、私達学校職員はいかにあるべきかなど多くを教えてくれる。
 今秋、耐震問題で藤沢西高の東棟の取り壊しが始まり、大壁画をはじめ多くの壁画が惜しまれながら失われていく。是非とも手に取っていただきたい一冊である。
 他に、藤沢西高の壁画をカラー写真で綴った「神奈川県立藤沢西高等学校『壁画写真集』」(藤沢西高壁画写真集作成委員会)もある。
ともに「高校教育会館」で扱っている。
(藤沢総合高校 関口康太郎)

ふじだなのほんだなから―県民図書室所蔵の資料案内―(5)
学校史、周年記念誌がおもしろい!(4)

■母校で元首相はどんな話をしたのか?
 前号で予告をしたので、小泉純一郎元首相(横須賀高校60年卒)が創立百周年記念式典に先駆けて実施された講演会において、全校生徒を前にどんな話をしたか紹介する。
 元首相は「高校時代、政治家だけにはなりたくない、と思ってたんですよ」と切り出し、「だから、皆さん、今考えていることも必ず変わりますから、人間の考え方というのは時間が経つと、年月が経つと変わってくるんですよ。今、これしかない。と思わないほうがいい」と(「この道しかない!」などと言っている現首相に聞かせてやりたいものだ)。そして、「いつの間にか、変人と言われながらも総理大臣になっちゃった。不思議なもんですよ」と言っている。講演録を読みながら、小泉節に会場は大爆笑だったに違いないと思った。
 「マイナスをいかにプラスにしていくか」を考えた方がよいと述べたあと、「今ね、変人って言われるの結構楽ですよ。何か変わったことをやると『私、変人って言われているからいいんだ』って言うと、みんな納得しちゃいますから。マイナスをプラスにとらえる努力っていうのは、これから大変大事だって思っているんです」と語っている。これぞ「自虐私観」(笑)かもしれない。
このあとは、「人をほめることが大事」「尺度を変えると評価が変わる」「人間として一番大事なのは信頼」「生涯学ぶことが大切」「失敗して当たり前。世の中、うまくいくことはめったにない」「人間の真価は一番苦しいとき、どう立ち向かうかで決まる」といったことなどを熱く語りかけている。
 旧制四中の設立にあっては、横須賀と藤沢とが誘致合戦を演じたと前号で紹介したが、このとき、小泉元首相の祖父で当時県会議員だった又次郎(その後、横須賀市議、衆議院議員、逓信大臣を経て横須賀市長となる)が深く関わっていたと横須賀高100周年記念誌の『百年の風』にあった。又次郎は元首相が9才のとき亡くなっているが、まさか自分の孫が四中(横須賀高)に入学するとは思いもしなかったであろう。
■横須賀よりも大津の方が先だった
 前号の文末でふれたが、四中(横須賀高)よりも2年前の1906(明治39)年、横須賀町豊島町組合立横須賀高女(大津高)が開校した。県立第一高女(平沼高)に次ぎ、県下で2番目の高女となる。同校100年史の『百年の記憶と歩み』(2009年刊)には、その前身である女子実業補習学校の学則が紹介されているが、天長節などの他に地久節(皇后の誕生日)も休業日と認められていた。女学校だからこその特権のようだ。 同じ09年、愛甲郡立女子実業補習学校(23年県立厚木実科高女と改称。現厚木東高)が開校している。同校100年史『夢はるか』(2007年刊)には、17(大正6)年の卒業生が書いた思い出が掲載されているが、横浜への1泊旅行の際、「往路は平塚まで舟、復路は馬車」とある。相模川を舟で南下していたのである。■高等女学校の登場
 県立中学の第1号は一中(希望ヶ丘高。1897年)だが、中学校令(1886年)が制定されてから11年後、全国で最も遅れた開校だった。これに対して高女の場合、高等女学校令(1899年)が出された翌々年の1901
(明治34)年、第一高女(設立時は県高女。1930年、横浜第一高女と改称)が開校している。同校が開校した1901年は、昭和天皇が誕生した年でもある。入・卒業期を西暦年の下2桁で表すことができ、平沼の在校生・卒業生は今も高女時代からの通し番号を使っているようだ(同窓会HP)。
 同校校歌は1916(大正5)年に作られ、その一番の歌詞は「をしへの道のみことのりわれらが日々のをしへなり」(作詞は佐佐木信綱。一中と同じ)とある。「みことのり」(教育勅語)を手本に毎日、励むとの歌詞はいかがかと、男女共学となる50年、「学びの道にいそしむは我等が日々のつとめなり」と改訂した。 一中の校歌は、開校からずっと遅れ、34(昭和9)年に作られている。同校歌は戦後、「皇国」を「御国」、「神中」を「神高」と一部の歌詞を書き換えたが、85(昭和60)年、新校歌に作り替えられた。校歌制定は今見たように、高女が1916年、一中が34年。ところが校旗は、一中が28(昭和3)年、一高女が38(昭和13)年と、ここでは一中が早い。高女の校旗、一中の校歌・校旗は開校から30年以上経てから作られた。両校の校旗が15年戦争開始期に制定されているが、軍旗の影響がありそうで興味深い。
■高女が次々に設立された
 一高女のあと、20年のブランクがあり、1921(大正10)年、県立平塚高女(平塚江南高)が誕生した。同校の『創立50年史』(73年刊)に、皇太子(現天皇)の生誕奉祝行事にふれた記述があるので、ここで紹介する。「昭和8年の12月23日に殿下の誕生をみたわけであるが、それまで内親王さまばかりで、お世継ぎの心配の声も巷間でささやかれていた時期だけに、殿下の誕生はただに皇室ご一家のおよろこびばかりでなく、国民ひとしく待望の慶事であった。(略)本校でも2月23日、講堂に全校生徒を集め、皇太子ご誕生の祝賀式をおこない、五十嵐校長からの訓話の形でこの慶事の意義について語られた」とあった。その後、校長以下3人の教員が学校を代表して、「皇太子ご誕生賀宴に列するために上京参内」したとも書かれている。 戦後、平塚女子高となったが、男女共学化(1950年)に伴い、校名の検討がなされた。陶陵(とうりょう)、白鷺、江陽などが候補に挙がったが、「江」(市内にある江陽中の1字をとる)という字に、発展性のあるという意味の「南」をつけて「江南」に決まったとのエピソードもあった。
 県立高女の3番手は、横浜第二高女(立野高)だが、同校の開校は36(昭和11)年、平塚高女開校から15年後である。この間に設立された高女(実科女学校を含む)を共学化以降の校名(カッコ内の数字は開校年)で列挙すると、城内(07)、上溝(11)、城東(21)、逗子(22)、藤沢(24)、大秦野(25)、大磯(27)、鎌倉(28)、伊勢原(28)、高浜(31)、三崎(33)、山北(42)など12校に上る。これらに大津、厚木東を加えた14校は、市町村立や組合立の高女(うち、大津・厚木東・城内・上溝は45年までに県立に移管)であり、県立高女はわずか3校(平沼、江南、立野)だけだった。一方、県立中学は横須賀のあと、翠嵐(横浜二中、14)、湘南(21)、緑ヶ丘(横浜三中、23)、川崎(27)、鶴見(41)が設立されている。 当欄で取り上げなかったが、県民図書室には平沼(2000年刊)、吉田島(08)の百年史が保管されている。
■やっぱり学校史はおもしろい
 筆者が学校史に関心を持つようになったのは、教員になってまもなくの頃だった。その後、たまたま3校の周年記念誌編集に関わり、学校史・記念誌刊行の意義やあり方などについて考える機会となった。これは今となっては「古きよき時代」のエピソードの1つかも知れないが、長期休業中、県民図書室で“学校史の研究”をテーマに「自主研修」に取り組んだことがあった。今日ならば、即、「却下」であろう。あれから10何年後になって、ようやく研修の成果(?)がここに表れたといえるかもしれない(自画自賛!?)。「学校史、記念誌がおもしろい」との誇大表示の下、4回にわたり連載したが、紹介できた学校はわずか。反省。男女共学(50年)の実施から来年で65年となるが、小田原高校では女子の入学者がたった1人。同校百年史には「驚天動地」とある。旧制中学の「生徒心得」も現在と比較するとおもしろい。「忠君報国ノ志操ヲ固クスベシ」とあり、敬礼、言語、教室の出入、自習などの項目が並ぶ。今ならばHR委員だが、組長・副組長と呼称。喫飯の項には「弁当持参」、自習は毎日「2時間ナスベシ」とある(横須賀高百年史)。
(綿引光友・元県立高校教員)

最近の雑誌記事より
県民図書室で定期購読入している雑誌のうち、いくつかを取り上げます。それぞれの雑誌の掲載内容については、その一部の紹介となります。これらの雑誌は県民図書室前の廊下の書架に並んでいます。ぜひ手にとってご覧下さい。

☆『季刊フォーラム教育と文化』(国民教育文化総合研究所)
 2014年夏号(76号)特集変貌する教育委員会制度道徳教科化のデメリット
☆『くらしと教育をつなぐWe』(フェミックス)
 2014年6/7月号(190号) 特集いろんなところから声をあげる
 2014年8/9月号(191号) 特集いろんなひとがゆきかう場を
☆教育科学研究会編集『教育』(かもがわ出版)
 2014.7 特集1子どもと教師の放課後・夏休み 特集2安倍「教育改革」と教科書
 2014.8 特集1私の「教育の民主主義宣言」を 特集2いま、教育の争点に挑む
 2014.9 特集1同調圧力と学校の自由 特集2沖縄の子どもと基地・貧困
 2014.10 特集1「学力テスト体制」黒書 特集2教育と福祉をつなぐ
☆日本教育学会『季刊教育学研究』
 第81巻第2号(2014.6)池野範男グローバル時代のシティズンシップ教育吉田文「グローバル人材の育成」と日本の大学教育
☆季刊教育法(エイデル研究所)
 2014年6月特集コミュニティ・スクールと学校のガバナンス
☆POSSE(NPO法人POSSE)
 2014年6月vol.23 特集そして誰もいなくなった?少子化×マタハラ
☆『学校図書館』(全国学校図書協議会)
 2014年6月号NO.764 特集甲府大会に向けて 学校図書館と著作権
 2014年7月号NO.765 特集地域や機関との連携・協力
 2014年8月号NO.766 特集学校司書、法制化なる司書教諭と学校司書の連携
 2014年9月号NO.767 特集出版産業の現状とこれから
☆『教育再生』(日本教育再生機構)
 2014年6月号 縄文からつながる日本・日本人
 2014年7月号 日本とは、日本人とは
 2014年8月号 教科書が変われば、日本が変わる
 2014年9月号 大相撲からみる日本
☆『季刊人間と教育』(旬報社)
 2014夏82号 特集この国のかたちと教育
 2014秋83号 特集センセイの時間 小特集みんな悩んで素敵な教師に
☆『家族で楽しむ子ども農業雑誌のらのら』(2014年秋号農文協)
 特集草と仲良く自然菜園
☆『DAYSJAPAN』(発行編集:広河隆一)
 7月号特集 軍事要塞化される沖縄
 8月号特集 福島の母440人の証言
 9月号特集 パレスチナ取材47年
 10月号特集 「慰安婦」がみた日本軍
☆『世界』(岩波書店)
 7月号特集 日本外交の分水嶺
 8月号特集 新成長戦略批判
 9月号特集 歴史認識と東アジア外交
 10月号特集 生き続けられる地方都市
☆『切り抜き情報誌女性情報』(パド・ウイメンズオフィス)
 2014.7特集 都議会女性蔑視ヤジ問題
 2014.8特集 集団的自衛権閣議決定
 2014.9特集 揺らぐ平和の原点
☆月刊高校教育
 2014.7特集 変わる専門学校と進路指導のポイント
 2014.8特集 複雑化する生徒指導課題にどう対応していくか
 2014.9特集 持続可能な社会づくりの担い手を育む
 2014.10特集 教育委員会制度改革で何が変わるのか

余瀝
知人と会うと、少し前は、子どもの話をしたものだが、今は、年老いて介護が要求される親の話が中心となる。確実に老齢化が進む日本を象徴するように、新聞は教育を取り上げる部分が減っている。教育委員会は、高校改革の名のもとに、教育予算を減らしてまた高校を減らそうとしている。県立高校を希望する中学生を考えるなら減らせるはずはないのだが。社会は少し、若者に厳しすぎるのではと様々な点で感じる。
編集 県民図書室 石橋 功