狭山事件と映画「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」
~狭山事件は終わっていない~
手島 純
袴田事件が再審に
1966年、静岡県で起きた強盗殺人放火事件の犯人として逮捕された袴田巌さんが、48年ぶりに釈放された。袴田事件が冤罪ではないのかという指摘はすでにあり、それがやっと再審決定という形で結実したのだ。それにしてもなんと長い拘置期間であったことか。「袴田さんは心を病んで
いる」という報道もあるが、無理からぬことだろう。死刑判決を受け、日々、死の恐怖を前にしての半世紀である。しかも、やってもいないことで殺人犯にさせられた冤罪事件である。
袴田事件のニュースで耳目をひくのは、日本プロボクシング協会の支援である。袴田さんは元プロボクサーであった。しかし、袴田さんがプロボクサーであったことが、「犯人」にされた要因のひとつになったのである。警察は、「ボクサー崩れだから殺人などやりかねない」という予断と偏見の上で捜査した。冤罪事件にはこうした予断と偏見がつきまとっている。ここで取りあげる狭山事件も同じである。
狭山事件は・・・・
1963年5月、埼玉県狭山市で女子高校生が下校途中に行方不明となり、その後、遺体で発見された。この事件の1か月前に起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」で大失態を演じた警察は、なんとしても犯人を捕まえたい一心で、被差別部落に見込み捜査を行い、被差別部落出身の石川一雄さんを別件で逮捕した。「部落出身者だから殺人などやりかねない」という予断と偏見がそこにはあった。
石川一雄さんは、一審で死刑判決、二審では無期懲役、そして長い獄中生活を終え、現在は「仮出所」している。しかし、彼の冤罪が晴らされたわけではない。「みえない手」につなぎとめられたままなのである。石川さんは今も無実を訴え続けている。
私は、学生時代に狭山事件のことを知り、冤罪事件、部落差別などをキーワードにした活動に参加した。狭山事件の弁護団側鑑定にもかかわったことがある。教育の場においても同和教育(解放教育)に出会い、さまざまな刺激を受けた。
狭山事件は、部落解放運動とのかかわりで、70年代における政治闘争課題になったが、時代の変遷とともに人々の口にのぼらなくなった。50歳後半以上の人は狭山事件のことを知っている人が多いが、今の若者はこの事件を知らない。そんな時代、事件と裁判の風化を食い止めるように、金聖雄(キム・ソンウン)監督の映画「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」が制作された。
狭山事件を扱った映画はいくつかある。私が観たものでは、須藤久監督「狭山の黒い雨」(1973年)や梅津明治郎監督「造花の判決」(1976年)がある。どれも石川さんの無実を証明しようと意図されているが、情念的であったり、逆に解説的であったりするために、映画のおもしろさと深さにやや欠ける。
しかし、映画「SAYAMA」はそれらの映画とはかなり趣を異にする。金監督は、石川一雄さんの人となりや日常生活に視点を当てることで、石川さんが殺人などするはずはないという確信を観客にもたせた。決して運動のプロパガンダではなく、映画そのもの自律性と芸術性に重きをおきつつも、結果的に「石川さんは無実である」ことを印象づけることに成功している。予断と偏見で肥大した冤罪事件を、等身大の世界へと引き戻すことで、無実の確証を得る。金監督の今までの作風が見事に結実した作品である。
在日コリアン2世である金監督は、「花はんめ」で川崎桜本に住む在日1世の悲哀を描き、「空想劇場」では特別支援学校の卒業生を中心とした「若竹ミュージカル」の活動を描いた。どちらもドキュメンタリー作品である。詳細は、『ねざす』№34、49の拙稿に譲るとして、ここで強調しておきたいことは、金監督の作品にはいつも「笑い」があるということである。それは嘲笑でも失笑でも苦笑でもなく、苦難のなかにいる人々が、その苦難を吹き飛ばすように笑うシーンである。不条理な重荷を笑いで解き放つ。金監督作品に登場するこうした笑いは、テーマ自体の重さを描きつつも、生活者としての個々の人間大切にしている視点が表出している。「SAYAMA」では石川一雄さんの妻である早智子さんの笑顔が特に印象的であった。
石川一雄さんのジョギングシーンも意表をついていている。石川一雄さんとジョギングはあまり結びつかなかったが、実際に石川さんは走っているのだ。狭山事件の被告であるということで近づきにくかった石川さんを「普通の人」にし、観客の伴走を可能
にした。
日本には冤罪事件がまだまだある。そもそも証拠さえ開示されれば、無実を証明できる事件も多い。日本に裁判員制度が取り入れられて5年が経つが、見込み捜査や証拠の非開示が続けば、冤罪事件は続くであろう。また、石川さんにかけられた「みえない手錠」をはずさせるために、公判を見守ることに加えて、世論の動きが重要である。
高橋伴明監督「BOX袴田事件命とは」(2010年)という映画が制作され、袴田事件に関して世論を喚起する一要因が作られた。その後、袴田さんの再審が決定した。狭山事件も同じ道をたどってほしいとつくづく思う。
学校図書館は、今・・・「天空の図書館」へようこそ!
田子 環
本校の図書館は5階にあります。古い造りの校舎で、もちろんエレベーターはありません。利用者泣かせ、司書泣かせ、そして本を届けてくれる書店さん泣かせの図書館です。図書館のある「新館」(と呼ばれていますが、築35年以上経過しています)は5階建てで、最上階には図書館しかなく、あとは屋上です。隣の教室棟とは渡り廊下でつながっていますが、こちらは4階建てなので、図書館に行ける階段は新館の一か所だけ。利用者は廊下を延々と端まで歩き、新館にたどり着いたら階段をひたすら昇る、というルートをたどって図書館にやってきます。2階の端にある一番遠いクラスからだと片道2分、歩数にして230歩(階段66段を含む)。管理棟の2階にある職員室からも同じくらいかかります。
こんなふうに300字も費やして、くどくどと書きたくなってしまうくらい不便な場所にある図書館ですが、窓から見える景色は最高です。閲覧室の三方に窓があり、狭い室内ながら気持ちのいい開放感にあふれています。入って左側の窓からは、なだらかな丘に沿って広がる住宅地の奥に円海山が見えます。右手と正面の窓からは、グラウンドを隔てて日野公園墓地の森や野庭団地など、起伏に富んだ地形が一望できます。春から初夏にかけては目に鮮やかな木々の緑が、秋や冬には美しい夕焼けが堪能できます。閲覧室からは残念ながら見えませんが、図書館前の廊下の窓からは富士山もばっちり見えます。視界を遮るものが少なく、空も広々として、初めて図書館に来た人が思わず歓声を上げる絶景です。見晴らしが良すぎるあまり、「高いところは苦手なんだよね」と窓に近寄らない生徒を見かけて、申し訳ない気持ちになったこともありました。
教室から遠くて不便、というのは、今さら嘆いても仕方がありません。このロケーションを逆手にとり、「高いところにあって居心地がいい」ことをアピールできる愛称をつけて図書館のイメージを良くしよう!と考えました。同じような状況で、県内に「アルプス図書館」、他県に「みはらし図書館」という愛称で親しまれている高校図書館があることは、既に知っていました。アルプスからの連想で…チベット?ちょっと「最果て」感が強くなり過ぎちゃうか。マチュピチュ?発音しづらいから却下。などと悩んだ結果、「天空の図書館」と命名しました。
最初は少し気恥ずかしかったのですが、ことあるごとに、この愛称を使うことにしました。図書館だよりや新着図書案内などの発行物やポスター類には必ず「天空の図書館」と書き、新入生オリエンテーションでも「天空の図書館へようこそ!」と連呼しているうちに、ちょっとずつ定着してきた気がします。廊下で生徒とあいさつを交わすとき、すれ違いざまに「あの人誰だっけ」「ほら、天空の…」「ああ、司書さんか」なんていう会話が聞こえてきたりすると、嬉しいようなくすぐったいような気持になります。「あ!天界の人だ!」と声をかけられたときには笑ってしまいました。
距離を苦にせず図書館に来てくれる生徒たちには、感謝の気持ちで一杯です。たどり着くまでは大変だけれど、がんばった人にはご褒美が待っている。気持ちのいい空間に知的好奇心を刺激する本がたくさん揃っていて、時が経つのを忘れてくつろげる。生徒たちにとって、図書館がそんな存在になれたらいいなあ、と思いながら、日々仕事をしています。
(県立横浜南陵高校 学校司書 田子環)
書評と紹介
吉井友二 著『これからの脱原発・教科書・平和教育』
七つ森書館 2013年12月 刊
高校で社会科を学ぶ目的はなんだろう。吉井さんの労作にふれて、改めて考えさせられた。当面大方の生徒にとっては受験のためなのかもしれないが、社会科というのは、本来、世の中のしくみと問題点を理解し、さらにより良い世の中に変えていくために学ぶものだと私は思う。
しかし、文部科学省の教育は、社会を支える人材を養成することが大事であり、現在の世の中は完成された最善のものであり、それを変革してよりよいものにする人材は必要なく、世の中のしくみを無批判に受動的に学ばせること、そうしたことを目標としているのではないだろうか。文科省の学習指導要領:高校地歴・公民分野には「批判」という言葉が1ヶ所しか出てこない。(日本史B-3.内容の取り扱い-(2)-ア)現行学習指導要領には「思考力・判断力・表現力等の育成と言語活動の充実」などと情報発信にやや重きを置いた目標が設定されている。これは昨今の国際的競争の時代に、外国のエリートたちと日の丸企業を背負って互角に渡り合える人材を理想としたもので、生徒個々人のためではないように見受けられてならない。そしてそこには「批判力」を養うという目標設定はない。
翻って、吉井さんの教育実践は、まさに批判力の養成を主眼にしている感じがする。最近のタームでは、リテラシー(批判的に読み解く力、Critical Thinking)ともいう。「世の中なんかおかしいよね? 矛盾してない?」「これって民主的じゃないよね?」吉井さんはつねにそうした問題意識から出発して、世の中のしくみを解体し、その問題点を生徒に気づかせようとしている。そうした実践を38年間ずっと続けてこられた。同じ社会科教員として、また、ここ20数年間毎月、月に2回は顔を合わせて世の中を論じ合っている仲間(よく飽きずに続いているなあ)としても、その実践の記録は驚異的である。
そうした教育のために、知識も必要だし、生徒にとって「人ごと」ではなく「自分ごと」にするための鋭い問題提起も必要だ。そのための仕掛けもさまざま試みられている。「吉井先生の授業(やり方)はすごい!と思う。型におさまることを知らず、さあ、マンガのプリントだ、こんどはテープだ、そしてビデオだ・・・・と。わたしたちに歴史というものを、紙切れの上ででなく、目で、耳で、心(先生はよく、イメージをふくらませて、というのである)で感じる授業を展開してくれた。」(生徒感想:本書p.95)立体的で縦横無尽にさまざまなものを教材にしてしまう、その着眼点のしたたかさ。
「第4章 映像と本のすすめ」には、映画・TVドラマ・著作物など、社会科教材のためのデータベース?が試みられている。その幅の広さは大いに参考になる。評者の根岸も大昔、視聴覚教材の活用の例としてつくってみたことがあるが、社会科教員ならば一度はやってみた人が多いと思う。これを契機に皆さんの知識を集めて、教研集会かどこかで一大データベースをつくってみるのもおもしろいと思う。
この吉井さんの教育実践は、従って社会科教員限定の有益な著作ではない。教員でない人にも、世の中を分析する視点として興味深く読んでもらえると思う。もし大多数の高校生が、吉井さんのような授業を受けていられたら、この国の世論はもう少し変わっていたかもしれない、そんな可能性を感じさせる著作である。
そして、社会科教員のかなりの者が、こんな本を書ける吉井さんをうらやんでいる。
(県立横須賀高校定時制 根岸富男)
石井喬 著『一九四五年鎌倉と米軍機による空襲』
かまくら春秋社 2013年11月 刊
著者の石井喬さんは1940年東京のお生まれで、県立横浜平沼高校や県立逗子高校に長く勤務され、現在も「横浜の空襲を記録する会」の会員として活躍されている。筆者にとっては神奈川の社会科教員として、また戦争を記録する活動における大先輩である。
冒頭、著者は本書執筆の動機を「記憶の風化」であると述べている。東日本大震災においてすら「記憶の風化」が叫ばれている現状があり、ましてや先の大戦の「記憶の風化」は急速に進んでいる。特に若い世代が戦争を知らないことに強い危機感を抱いている。そのため、著者が長くフィールドとしてきた鎌倉の戦争をわかりやすく紹介し、「記憶の風化」を少しでも押しとどめることが本書の目的である。鎌倉は直接B29による空襲を受けたこともなく、戦争による大きな被害はなかった。しかしそのことで鎌倉は戦争と関係なかったと言えるのか。こうした問題意識に基づき、いわゆる鎌倉文士たちの日記、市民からの聞き取りや手記などを資料として鎌倉の人びとの日常に迫る戦争の影を描いたのである。なお本書は、表題の「一九四五年鎌倉と米軍機による空襲」と「治安維持法体制下の鎌倉で」の二部構成となっている。
本書は、まずB29や焼夷弾など空襲に関わる基本的な用語から解説する。若い世代にはなじみのない用語だが、空襲を理解する際には欠かせない。その上で、個別に防空警報、灯火管制、機銃掃射、疎開などが取り上げられ、併せて大佛次郎ら鎌倉文士の日記に見られる戦争に関する記述が丹念に紹介される。
内容は多岐にわたるが、筆者が興味をもったのは噂とデマである。多くの噂が流れるなかで、人びとの関心が最も高かったのが、鎌倉がいつ空襲を受けるかである。敗戦後に明らかとなった米軍の空襲リストで、鎌倉は180都市の中で124番目だった。原爆の投下候補地が除外されたりして、必ずしも順番通り爆撃されたわけではないが、米軍はビラなどで空襲を予告して人びとの不安を煽った。鎌倉の人びとが、そうした噂に敏感となっていたことがよくわかる。だからこそ戦争が終わった後で、鎌倉が空襲を受けなかった理由を探し求め、史実にない「ウォーナー伝説」が生み出されたのではないだろうか。
近年、米軍の日本本土空襲に関する研究は大きく進展している。中でも成果をあげているのが米軍資料研究会である。米軍資料とは、米国立公文書館が所蔵する米軍の対日作戦資料群のことであり、研究会の熱心な活動により、B29や空母艦載機、陸軍機の作戦行動が具体的に明らかとなってきている。米軍の詳細な報告書の作成と膨大な記録の保存は、「戦争ができる国」の実態をよく示している。なおその成果の一つとして、本書でも紹介されている「電波妨害用の錫テープ」(p93)は、「ロープ」と呼ばれ、材質もアルミだったことがわかっている。発見例は少ないが岡山市、仙台市、浜松市、東京都豊島区、神奈川県大磯町で実物が保存されていて、調査報告もある(『空襲通信』第15号、2013年)。
「治安維持法体制下の鎌倉で」では、鎌倉に住んだ社会主義者や転向者などを特別高等警察がどのように取り締まったかが明らかにされている。それは当然冷酷で非人間的なものだったが、特高が借金取りを追い払ってくれた話(p139)もあり、特高の人間的な一面が描かれていてとても興味深い。
以上雑駁な内容となったが、著者のますますのご活躍を祈念しつつ紹介を終わる。
(県立柏陽高校 矢野慎一)
ふじだなのほんだなから―県民図書室所蔵の資料案内―(4)
学校史、周年記念誌がおもしろい!(3)
■四中でも開校時から兎狩り
前号の最後で「花柳病検診」について触れた。「花柳病」と聞いても、意味がよくわからない人も多いであろう。戦前、男は17歳以上で結婚できた(因みに、女は15歳以上)ので、病気のリスクに対する配慮から、このような検診を旧制中学で実施していたのであろうか。かつて某県立高校で「生と性」という授業を担当した身としては、花柳病検診の実際についてさらに「教材研究」を試みたいところだが、ここでは脇道に逸れてしまうので、これでやめておこうと思う。
花柳病検診と合わせて、兎狩りについても触れたが、これについてはもう少し掘り下げて述べてみたい。三中(厚木高校)の卒業生が兎狩りについて、次のように回想している。「大山のふもとの七沢あたりだったと思うが、そこまで行って全員でウサギを追い立て、囲み込んで捕まえるのである。その獲物を玉川の川原で『ウサギ鍋』にして食べるのだが、実際にはウサギはほとんど捕れず、鍋の中身は豚肉ばかりだった」と。
四中(横須賀高校)でも、1908(明治41)年の開校時から兎狩りが実施されている。学校史年表の09年12月4日の項に、「午後、裏の曹源寺山でウサギ狩りを行う。1兎を得る」との記述を発見した。
■兎狩りvs兎飛び
筆者は新制中学の卒業生(当たりマエダの○○!)だが、卒業したM中では、兎狩りはなかったが、丸刈りと兎飛びがあった(笑)。丸刈りを校則で定めていた中学で、“丸ボー”にさせられたボクたちは、恐い教員に命じられ、グラウンドの端から端までピョンピョン兎飛び。考えてみれば、これは「体罰」だったかもしれないが、“丸刈り”中学生にそのような自覚はまるでなく、歯を食いしばりながら“丸刈り兎”(?)を演じていた。「兎飛びのおかげで、今も足が丈夫なのかもしれない」と思っているのだから、いやはや。
脱兎ならぬ脱線をしてしまった。話を兎狩りに戻すと、一中(希望ヶ丘高校)では不明だが、二、三、四中ではそれぞれ、兎狩りを学校行事として実施していたことが確認できた。しかし、いずれの学校でも、この兎狩りの目的や教育的な意義については触れていない。二中(小田原高校)では前号で紹介したように、明治天皇の皇女たちにプレゼントしていたが、皇室への献上が目的ではないだろう。三中の場合も、「ウサギ鍋」(兎が捕れなければ、「豚の鍋」)にして食べることが兎狩りの目的だったわけではないはずだ。
ところで、3.11以降、しばしば歌われる唱歌「ふるさと」の一節に「うさぎおいし」とあるが、これは、「うさぎ美味し」ではない。食糧難時代には兎の肉を食べたこともあったので、「美味し」も通じそうだが、漢字で書けば「うさぎ追いし」が正解だ。ここでは「兎追い」や「兎狩り」を表現している。「ふるさと」は、高野辰之作詞、岡野貞一作曲の元文部省唱歌だが、1914(大正3)年、『尋常小学唱歌』(6年)の中に初めて登場した曲だ。ということは、「ふるさと」は歌い継がれて今年でちょうど100年を迎えたことになる。また1914年といえば、日露戦争からちょうど10年、第1次世界大戦が始まった年にもあたる。
■何のための兎狩りだったのか?
ついつい脱線してしまうが、ご寛容を。本題に戻すと、旧制中学校では、なぜ兎狩りが開校時から、学校行事に位置づけられていたのだろうか。実はこのことも当欄の趣旨と照らせば脱線かもしれないが、「話の成り行き上、しかたがない」と「いいわけがない」言い訳をしたうえで、さらに話を先に進めよう。
前号を書き終えたあと、哲学者内山節さんが書いた論稿を読み、兎狩りに関してある仮説を思いついた。
「だから冒頭は『ウサギ追いしかの山』からはじまる。日露戦争の頃から、寒冷地での戦争のために軍服につける襟巻きが大量に必要になった。(略)子どもたちもウサギを追い、その皮を『お国のために』提出するようになっていった。決して牧歌的にウサギを追いかけていたわけではなく、少国民としてお国のために働いたのである」(内山節「復興とローカリズム」教育科学研究会編『地域・労働・貧困と教育』〈『講座・教育実践と教育学の再生』第4巻〉2013年12月、かもがわ出版)
筆者の仮説とは、「中学生たちに兎を捕獲させ、それをお国に供出したのではないか」というものだ。県立二中、三中、四中の開校年はそれぞれ、1901年、02年、08年であり、日露戦争(04~ 5年)の前後に相次いで設立された。襟巻用の兎確保に関する指示が上から出され、地域や学校において兎狩りが組織的に実施されたのである。高野はその光景を思い浮かべながら、「ふるさと」の詩を一気に書き上げたのではないか。
筆者が示した仮説を裏付けるためには、兎捕獲を命じる文書を見つければいいのだ。しかし、終戦時に証拠隠滅のため焼却処分を命じる「わが帝国」ゆえ、命令文書を発見できるかどうかはわからない。
■今も兎狩りをしている高校があった!
兎狩りは過去のものと誰もが思うはずだが、インターネットを使って、調べていたら、今も兎狩りを学校行事として実践している高校があることがわかった。「ナニコレ珍百景」(テレビ朝日系)という番組(2011年11月放送)で紹介されたこともあったという。この高校というのは、サッカーの強豪校でもある岩手県立遠野高校(旧制遠野中学。二中と同じく1901年開校)である(同校HPによれば、1学年普通科4クラス)。
昨年のウサギ狩りの様子について、同校の校長が次のように書いている。「2年に1度のウサギ狩りが(2013年―引用者)10月4日(金)に行われました。学校で出陣式を行い、2陣に分かれてバスでわらび峠に移動。11時35分から大将の攻撃開始の合図、軍楽隊の進軍ラッパで攻撃開始。生徒の奮闘むなしく今年も戦果はゼロ。気を取り直してレクリエーション。その後、クラス毎にジンギスカン鍋を囲んでの昼食となりました。当日は天気にも恵まれ、狩り場であるわらび峠も暖かく絶好のウサギ狩り日和でした。(後略)」
79(昭和54)年以来、「戦果」はゼロだそうだ。生徒会新聞には、ウサギ狩りの目的として次の4点が示されている。「①遠野高校の伝統行事を継承する。②先輩方が代々継承してきた行事に触れることで、遠野高校の伝統の重さを感じる。③豊かな自然の中で活動することで、体力の強化、連帯意識の向上を図る。④学年、クラスの団結力と親睦を深める。」
■四中設立をめぐる横須賀 vs藤沢の誘致合戦
今回は兎を追いかけすぎて、本文の方は「亀さん」となり、肝心の学校史の紹介がほとんど進まなかった。残された紙数はわずかとなったが、最後に旧制四中、横須賀高校の百周年記念誌『百年の風』(2010年3月刊行)について少しだけふれる。記念式典そのものは08年5月に実施されており、小泉純一郎元首相(同校60年卒)が来賓として挨拶している。また、式典の直前、校内において創立百周年記念講演会が開かれ、元首相が「若い世代に願うこと」との演題で全校生徒を前に話をしている。講演内容は『百年の風』に収録されているが、次号でそのさわりだけを紹介する。校長の講師紹介では、小泉元首相が高校時代、図書館でどんな本を読んでいたか披露しているが、そうした記録が卒業後50
年近く経っても保存されていたことに驚いた。
県立四中設立をめぐっては、横須賀と藤沢とが激しい誘致合戦を演じ、県議会では、わずか1票差で横須賀に軍配が上がった。1票差で惜敗した藤沢(湘南中)の
開校は、日露戦争後の財政難も災いし、10年以上遅れ、1921(大正10)年。四中の2年前に横須賀高女(大津高校)が開校しているが、県立第一高女(平沼)に次いで古い歴史をもつ高女である。
(綿引光友・元県立高校教員)
最近の雑誌記事より
県民図書室で定期購読入している雑誌のうち、いくつかを取り上げます。それぞれの雑誌の掲載内容については、その一部の紹介となります。これらの雑誌は県民図書室前の廊下の書架に並んでいます。ぜひ手にとってご覧下さい。
☆『季刊フォーラム 教育と文化』(国民教育文化総合研究所)
2014年冬号(75号) 特集 外国語教育のいま
☆『くらしと教育をつなぐ We』(フェミックス)
2014年2/3月号(188号) 特集 塀の上を歩く人を増やそう
2014年4/5月号(189号) 特集 大事なものは目には見えない
☆教育科学研究会編集『教育』(かもがわ出版)
2014.3 特集1 3.113年目を生きる 特集2 卒業式と日の丸・君が代
2014.4 特集1 失敗と試行錯誤の教育学 特集2 大衆化する大学の苦悩
2014.5 特集1 若手教師のリアル生き凌ぐ技法 特集2 子どもの「うつ」
2014.6 特集1 キャリア教育をつくりかえる 特集2 食と教育
☆日本教育学会 『季刊 教育学研究』
第81巻第1号(2014.3) 保田直美「学校への新しい専門職の配置と教師役割」 朴澤泰男「女子の大学進学率の地域格差」
☆季刊教育法(エイデル研究所)
2014年3月 特集 どうなる? 教育委員会制度
☆POSSE(NPO法人POSSE)
2014年3月 vol.22 特集 追い出し部屋と世代間対立
☆『学校図書館』(全国学校図書協議会)
2014年2月号NO.760 特集 子どもにおくるメッセージ
2014年3月号NO.761 特集 東日本大震災からの復興
2014年4月号NO.762 特集 教科指導と学校図書館
2014年5月号NO.763 特集 読書感想文コンクール60年
☆『教育再生』(日本教育再生機構)
2014年3月号 よりすぐりの「明言」 「味わい深い言葉」一挙再現
2014年4月号 さあ、出発しよう! 教科書採択に向けて
2014年5月号 教育再生民間タウンミーティング
☆『季刊 人間と教育』(旬報社)
2014 春 81号 特集 スクールキャピタリズム―公教育は誰のものか
☆『家族で楽しむ 子ども農業雑誌 のらのら』 (2013年冬号 農文協)
特集 魔法の液体
☆『DAYS JAPAN』(発行編集:広河隆一)
5月号 特集 第10回 DAYS国際フォトジャーナリズム大賞特大号
6月号 実測チェルノブイリ放射能汚染図
☆『世界』(岩波書店)
4月号 特集 復興はなされたのか―3年目の問い
5月号 特集 集団的自衛権を問う
6月号 特集 冤罪はなぜ繰り返すのか―刑事司法改革の行方
☆『切り抜き情報誌 女性情報』(パド・ウイメンズオフィス)
2014.3 特集 ソチ冬季五輪
2014.4 特集 東日本大震災から3年
2014.5 特集 ハーグ条約加盟と多様化する家族像
☆『月刊高校教育』
2014.4 特集 今、高校管理職に求められる力
2014.5 特集 加速する「教育再生」
2014.6 特集 大学入試をもう一度根本から考える
余瀝
「藤棚の坂を登るのが苦痛になると退職のころ」になると若いときから言われて
きた。まさかそこに退職後定期的に行くことになるとは予想すらしていなかった。また89号の執筆を頼まれたとき、この「共同時空」をつくるとは夢にも思わなかった。今後、運命に逆らわずよりよいものを作っていきたい。
編集 県民図書室 石橋 功