第87号

排外主義を超えて~民際外交から多文化共生社会へ~
山根俊彦

 日本の政治家による歴史認識を問われる問題発言が続き、これらの発言が外交関係に影響を与えている。一方では、聞くに堪えないヘイトスピーチが、ネットの世界を飛び出し白昼に公然と語られるようになっている。
 こういった発言が、日本社会や日本人の底流にずっと流れていた排外意識を引き出し、在日外国人が生きづらい雰囲気を醸成している。それを制度化したものが、朝鮮高校の生徒たちの高校授業料無償化からの排除、さらには神奈川県の朝鮮学校への補助金カットであろう。
 この春の朝鮮学校排除に反対する集会の中で、田中宏一橋大学名誉教授は、神奈川県での民際外交や多文化共生の取り組みを紹介しながら、「黒岩知事は神奈川の誇るべき歴史に泥を塗った」と批判されていた。
 神奈川県では、1970年代から、地域や学校、そして自治体(行政)において、在日外国人への差別をなくす取り組みが積み重ねられ、全国的にも高い評価を受けてきた。私自身が編集に関わっている書籍もあるので自画自賛になる面もあるが、文献を紹介しながら、振り返ってみることにする。
 神奈川県では、1975年の長洲県知事の誕生と同時に「民際外交」が提唱された。その後、在日外国人(当時の外国人の多くは在日韓国・朝鮮人)に目をむけた「内なる民際外交」の施策が展開されていくことになる。最初に県職員の研究チームから『神奈川の韓国・朝鮮人-自治体現場からの提言』(1984公人社)が出された。次に、有識者を中心に、在日外国人の実態調査を行うチームが作られ、『日本の中の韓国・朝鮮人、中国人-神奈川県内在住外国人実態調査より』(1986明石書店)に結実する。また、渉外部国際交流課は、『ハムケ(ともに)-見る、知る、考える。在日韓国・朝鮮人と私たち』という冊子を作成し各学校に配布した(この冊子は後に明石書店から市販される(1992))。
 「国際交流」といえば国と国とのつきあいでしかなかった時代に、「民際外交」や「内なる民際外交」の理念を打ち出し、自治体主導で提言や実態調査を行ったことは画期的だった。
 地域に目を向けると、神奈川の場合、民族差別を糾す運動は、日立就職差別裁判を嚆矢とする。愛知県のパクチョンソク高校を卒業し、内定をもらった日立戸塚工場から、外国人だとわかって内定取り消しをされた朴鐘碩さんが提訴した裁判である。この裁判は、単に就職差別を裁判所が否定したことにとどまらず、朴さん自身が裁判闘争の中で自らのアイデンティティを取り戻していったことに大きな意義があった。裁判の経過は、『民族差別-日立就職差別糾弾』(1974亜紀書房)にまとめられているが、この裁判を支援した「朴君を囲む会」が、後に民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)に発展していく。民闘連は、その後の指紋押捺拒否闘争や戦後補償裁判などの中心を担うことになる。
 1980年代の指紋押捺拒否闘争には、多くの高校生が参加した。16歳の時(当初は14歳の時)にはじめて指紋を押すことになるからだ。神奈川での運動は、『日本の中の外国人-人さし指の自由を求めて』(1985神奈川新聞社出版局)に詳しい。また、呉徳洙監督の映画『指紋押捺拒否』(1984)は、当時県立白山高校3年生の辛仁夏さんを主人公にしたドキュメンタリー映画だ。この映画に出てくる、辛仁夏さんが長洲県知事に出した手紙は今も忘れがたい。
 一方で、指紋押捺拒否のために逮捕された川崎市の李相鎬さんの所にはたくさんの脅迫状が届く。日本社会に根強くある暗い側面を『指紋押捺拒否者への「脅迫状」を読む』(1985明石書店 )で知ることができる。ネットがない時代のヘイトスピーチである。
 学校に目を向けてみよう。高校では、県立川崎高校での取り組みから実践がはじまる。朝日新聞川崎支局の前川恵司氏が書いた『韓国・朝鮮人―在日を生きる』(1981創樹社)に詳しい。当時高校に通う在日韓国・朝鮮人生徒の多くは日本名を名乗り、自分を隠していた。神奈川県高等学校教職員組合では、1976年より「民族差別と人権」問題小委員会が、在日韓国・朝鮮人の生徒たちが自らを隠すことなく生きていける社会や学校をめざして活動をはじめていた。この小委のメンバーが編集した『わたしたちと朝鮮-高校生のための日朝関係史入門』(1986公人社)『この差別の壁をこえて-わたしたちと朝鮮第2集』(1992公人社)は、高校生向けのわかりやすい書物として評価が高かった。
 川崎市教委は1986年、神奈川県教委は1991年に「在日外国人(主として在日韓国・朝鮮人)教育の基本方針」を出す。また、川崎市は、1988年に、全国ではじめての在日外国人と日本人の共生施設「ふれあい舘」を開館。さらに1996年には「外国人市民代表者会議」を設置し、選挙権のない外国人市民の声を聞く場を設けた。『多文化共生教育とアイデンティティ』(2007明石書店)で金侖貞氏がこの間の経緯を細かく追っている。
 1990年に入管法が改正され、南米などから「ニューカマー」と呼ばれる新たに渡日する外国人が増加する。学校現場でも、日本語を母語としない外国につながる子どもたちが急増し、新たな取り組みがはじまる。横浜市鶴見区の潮田中学の実践が紹介されている『多文化共生をめざす地域づくり』(1996明石書店)、『多文化共生の学校づくり-横浜市立いちょう小学校の挑戦』(2005明石書店)などが実践の記録として貴重だ。高校では今号の書評欄にある『人権と多文化共生の学校-外国につながる生徒たちと鶴見総合高校の実践』(2013明石書店)がある。
 今や在日外国人は200万人を超え、どこの学校にも外国につながる生徒たちが在籍しているのが当たり前の時代になった。しかし、日本人生徒の多くは、外国につながる生徒がなぜ目の前にいるのかその背景を知らず、無関心だったり、「外国へ帰れ」と言ってしまう。政治家による排外主義的発言が続けば、その影響を受ける生徒もいるだろう。『まんがクラスメイトは外国人-多文化共生20の物語』(2009明石書店)『まんがクラスメイトは外国人入門編-はじめて学ぶ多文化共生』(2013明石書店)は、外国につながる生徒たちの存在を知るために、中高生向けに易しく書かれた本である。
 神奈川の「民際外交」がはじまって40年近くになる。この間積み重ねられてきた「神奈川の誇るべき歴史」を学び直し、一部の排外主義的な言動に惑わされることなく、多文化共生社会実現に向けた取り組みを続けたいと思う。
(県立横浜清陵総合高校 やまねとしひこ)

活用される県民図書室をめざして
佐久間 ひろみ

 縁あって昨年4月から県民図書室の仕事を始めた県立高校の元学校司書です。
 現役時代専門委員としてしばしば会館には来ていましたが、この図書室に足を踏み入れたのは1回だけ。正直私とは無縁の存在でした。多くの方々は私と同じ状況ではないでしょうか。
 そこで今回改めて県民図書室を簡単にご紹介したいと思います。

県民図書室の発足はいつ?

 県民図書室の開室は1984年。主任手当の拠出金を有効活用しようと、1980年に発足した高校教育資料セン
ターの理念と資料を引き継いだ形で活動を始めました(共同時空83号巻頭言参照)。

当初の運営及び資料収集方針は?

 「戦後の教育関係資料の収集、分類・分析、資料紹介、所蔵資料を基にした二次資料の作成、研究活動成果のまとめなどを活用されるように整備し、一般公開することで教育活動推進の一助とする」ことを目的に、具体的な収集方針として①特に教育運動、事件等に着目した戦後の教育資料②当面解決を迫られている課題の究明に資する資料③高校教育に関する基礎的な研究資料④他の機関・図書館等での収集資料と競合しない資料を精力的に収集することが、第一回高校教育資料センター運営委員会で確認されています。

どこにあるの?

①高校教育会館の階段を上って、自動ドア2枚を通り抜けたら左手をご覧下さい。
②上のホールに行くらせん階段の手前にひっそりと口を開けた入り口が…。一歩踏み込むと下におりる陰気な階段!
③下りていくと右手にドア(いつも開いてます)とその先に狭い廊下。空気が湿っぽくてなんだか怪しい地下室みたい?(これは冗談)その廊下(すぐに左に曲がります)を進むと左に教育関係の雑誌が多数展示された書架があり、その書架のむこう、左手にあるドアを開けると…「県民図書室」です!
 県民図書室の中は…説明しきれないので前出の「共同時空83号」巻頭言(綿引光友氏)や「共同時空76号」「同86号(前号)」巻頭言(吉井友二氏)をご覧いただくか(映像も含め所蔵資料の紹介が具体的に書かれています)実際にのぞきに来て自分の目で確かめて下さい。白髪頭でメガネの司書(私)がご案内いたします。

現在の活動状況は?

 今年2月に図書館管理ソフトを新しい市販の物に乗り換えました。関連して蔵書の検索システムも変更し、キーワードで簡単に所蔵資料の検索ができるようになっています。
 教育会館のHPから県民図書室のHPに入れますので一度試しに検索してみてください。
 現在所蔵データは入力済なのですが、本にバーコードを貼る作業中でもうしばらくご不便をおかけします。年4~5回資料選定委員会を開き受入資料の選定を行っています。今年度の資料購入予算は約180万円(映像資料・雑誌も含む)です。選定の参考にするのは国会図書館の新着データと利用者の方々からのリクエストです。学校図書館では選定基準から外れるけれど授業の参考にしたい資料(DVD等も含む)があったら選定俎上にあげますのでどうぞご連絡を。(開室は平日9:00~17:00です。詳しくはHPをご覧ください)

 県民図書室発足の際、複数の現職学校司書が図書室としての機能整備のために尽力されています。時代は移り、県民図書室も当初の理念を基盤にしつつ柔軟に対応していく必要に迫られています。どうしたら教育と労働の専門図書館として現場をバックアップできるのか、次回から「現場の声」として学校図書館からみた教育現場の状況をリレー形式でレポートしてもらう予定です。もちろん学校司書以外の方の投稿も大歓迎です。生の「現場の声」をお聞かせ下さい。
(高校教育会館県民図書室司書 さくまひろみ)

書評と紹介
宋 基燦 著
『「語られないもの」としての朝鮮学校 ―在日民族教育とアイデンティティ・ポリティクス』
岩波書店 2012年6月刊

 韓国人の大学助教である筆者の、37ヶ月におよぶフィールドワークの聞き取り調査やデータから在日の歴史、朝鮮学校の歩み、そしてその間の生徒のアイデンティティの変化が社会人類学的に語られている。しかし、博士論文を元にした本書は何とも読みにくい。序章の一部:「ポストモダンにおけるアイデンティティの多重性と構造性を…」。正直この論調には苦戦した。でもがんばって美容院、居酒屋などでこの本を取り出し、少しずつ読み進める過程で、改めて「世間」の認識も実感した。「これは北朝鮮の本ですか?」とか「珍しいものを読んでいますね。」と反応が。朝鮮学校=北朝鮮→自分たちと異なる存在!?これが世間の朝鮮学校に対する印象なのか!。
 筆者は、いまだに日本で「あたりまえに生きる」ことが簡単でない現実からの「解放空間」である朝鮮学校では、「朝鮮語」で形成される集団を通してアイデンティティが形成されると指摘する。しかし一方で高校時代「不良」だったと振り返るアボジが「将軍の歌」を歌うときに、朝鮮語を発音が似ている日本語に強調して笑いを誘発する「いたずら」をやった話などを紹介し、朝鮮学校における「集団主義の抑圧」に対する個人の抵抗は「日本語」であったりもするという。さらに長期にわたる朝鮮学校の取材から、三世以降のアイデンティティは、一,二世のものとずいぶん違っていると指摘する。三世以降は、個人(日本語)と集団(朝鮮語)の使用する言葉で分けられた「2つの世界」を持ち、「2つの世界」を行き来することで、両者の世界から受ける抑圧からの脱出を可能にしているという。
 日本人オモニの話(生徒も保護者も実に多様であるのが実態)。拉致問題を北朝鮮が認めて、学生達もいじめられたりしたとき、息子に気をつけなさいと言ったら、「『そういうことが何度もあるけど大丈夫』って言うんです。『何でオモニに言ってくれなかったの?』。そしたら、『オンマ、北朝鮮が悪いんだよ。自分らはこんなことされてもしかたないんだよ』って言うんです。」「2つの世界」をもつ彼は、個としての判断と、集団としての責任を感じているのだと思う。しかし、彼に何の責任があるのだろうか?
 例えば、親が罪を犯した場合、責任がないにもかかわらず、子が世間の非難の対象となったりする。子が幼ければ、どうしようもないかもしれない。しかし、子が成長し独立していたら、子である事実は消えないが、困難はあれ、自分の道を歩めるのではないか。朝鮮学校を幼い頃育てたのは、北朝鮮かもしれない。しかし、朝鮮学校が生まれて半世紀以上経った今、確実に独立した道を歩んでいるのではないか? 神奈川県では、アースフェスタをはじめ、多文化社会の実現をめざしたとりくみに、朝鮮学校の協力が欠かせないものとなっている。そのような道を進む朝鮮学校を単純に=で結び、北朝鮮が悪いことしたから、責任とれと言えるのだろうか?
 神奈川県は、北朝鮮の核実験を理由に、突如朝鮮学校に対する助成金不計上決めた。この問題は、「多文化共生」を掲げ歩んできた神奈川県に生きる私たちに今、「どのような社会を築きたいのか」と問うている。「朝鮮学校のプロパガンダでもなく、無条件の批判でもない、朝鮮学校のありのままの姿を肯定する新しい視覚の発見」をめざしたという本書の、この書評といえない書評が、朝鮮学校の助成金の復活の力になればいい。
(県立湘南高校定時制 県民図書室資料選定委員 加藤はる香)

書評と紹介
坪谷 美欧子・小林 宏美 編著
『人権と多文化共生の学校―外国につながる生徒たちと鶴見総合高校の実践』
明石書店 2013年3月刊

 本書を手にした方にはまず最後にある「参考資料 鶴見総合高等学校多文化共生教育指針」を読んで欲しい。「外国につながりのある生徒たちを本校の「宝」として大切にしていきたいと思います。」(198頁24行)高い支持率を得ている(とマスコミが言う)政権の危険な歴史認識、「慰安婦(性奴隷)は必要だ」と言ってはばからない市長、法的制裁も受けないヘイトスピーチ……。目を覆いたくなる状況下の日本に、こう高らかに宣言している学校があることを、同じ県立高校に働く者として誇りに思いたい。
 しかし、「外国につながる生徒」の支援に積極的に取り組む教員や現場は全体から見るとまだマイナーではないだろうか。私の所属している神高教の教研組織、在日外国人教育小委員会では毎年「在籍アンケート」や「在籍校会議」を実施しているが、毎回「どうしたらいい?」「困った!」との声が挙がる。
 「外国につながる生徒たち」を前にして、戸惑ったり困ったりしている方には、第Ⅱ部、特に4,5章をお勧めしたい。個別対応授業(取り出し)の進め方のヒントやすぐに使える資料もある。6章で取り上げている国際文化系列の授業も、選択科目や「総合的な学習の時間」に取り入れることができる。7章の本多・エステル・ミカさんの言葉も示唆に富んでいる。特に「日本は,私を温かく受け入れてくれた国、父の言葉を胸にこれからも鶴見総合高校で生徒たちと成長したいと思っている。」の言葉は胸を打つ。こんな先生と学べる生徒は幸せだ。(しかし、現行制度では外国籍の教員は「常勤講師」扱い。これは一刻も早く改めるべきだ。職員室が閉じたままの国際化教育など眉唾だ。)
 第Ⅰ部第2章の進路保障の問題も「外国につながる生徒」のいる現場教員には必読だ。生徒はさまざまな「壁」に直面する。支援の第一歩は生徒の状況を把握することだ。「個人情報はできるだけ収集しないほうがいい。」と二の足を踏む職場もあると聞くが、それは明らかに間違っている、滞在資格も知らずに進路指導などできるわけがないのだから。次に必要なのは、生徒に関わる教員が「壁」についての知識理解を深めることだ。本章の執筆者は長年生徒を支えてきた。豊かな実践に裏打ちされた言葉からは学ぶことが多い。
 多文化交流委員会の活動を通して成長していく生徒を描いた第Ⅲ部第9章からは「在県外国人等特別募集」が、当該の生徒のみならず他の生徒にもプラスに働いていることが分かる。(しかし、横浜・川崎・横須賀等では「特別枠」が足りていない。本書をきっかけとなり「外国につながる生徒」が学校に与えるプラス面を知り、「特別枠」の導入に踏み出してくれる現場が現れることを期待したい。)
 実を言うと、私と鶴見総合高校とのつながりは長い。1989年から平安高校に勤務し、寛政高校へ異動、鶴見総合へ統合、合わせて18年になる。90年の入管法改正で鶴見地区は急速に国際化が進み、南米出身の生徒が高校の門を叩くようになった。そのころからの取り組みを回想している第3章はぜひ鶴見総合や他の「特別枠校」の教員に読んでほしい。第10章のインタビューのお二人も寛政のころから日本語指導のみならず生活相談など親身になって生徒を支えて来られた。寛政高校での「外国につながる生徒」受け入れは、鶴見という地域の要請に応えて始まった。しかし、鶴見総合になって地元の生徒は入りづらくなってしまった。立派な教育指針や校内組織があっても、何のための支援かその原点を忘れたルーティンワークになってしまっては「仏作って魂入れず」となってしまう。
(希望ヶ丘高校定時制 舟知 敦)

ふじだなのほんだなから ―県民図書室所蔵の資料案内―(1)
支部教研記録集・報告書、支部教研誌から学ぼう

■なぜ、この連載を始めるのか
 本紙83号(2012年3月)に「県民図書室と教育関係資料」という一文を寄稿し、「県民図書室には“お宝資料”が一杯ある」と書いた。“お宝資料 ”と言っても、ある人から見れば“お宝”であっても、別な人からは、ただの“紙ゴミ”にしか見えない場合もある。
 そこで、眠ったままに近い県民図書室の所蔵資料を紹介してはどうかと考えた。膨大な資料群のなかから、何を取り上げるか―これは難問だが、筆者の独断と偏見、思い込みとわがまま(「わがパパ」?)によって、書架(本棚)から取り出し、具体的な内容にも触れながら、資料案内をしていこうと思う。
■ 支部教研はいつ、どこから始まったのか
 移動式書架の20列に、『教研誌』などとともに、緑色のファイルに綴じ込まれた支部教研記録集(報告書、教研誌)が並んでいる。今回、この支部教研記録集を取り上げようと思いついたのは、「教研改革」が喫緊の課題であると言われているので、その検討にあたって参考になればと考えたからでもある。
 支部教研の記録集は、全11支部(川崎、横浜北、横浜中、横浜南、湘南、三浦半島、県央、県北、平塚、秦野、小田原)のものが一応、揃っている。しかし、2000年以降のものは少なく、恐らく各支部からの提出状況が良くないからではないかと思う。また支部によるばらつきや支部間格差も大きく、およそ30年前のものがわずか1部だけ残っているという支部もある。
 さてクイズになるが、県下で最も早く支部教研を開催した支部はどこか?『神高教30年史』には、「(74年度)県北支部につづいて、川崎・横須賀三浦・小田原・平塚で支部教研が開催された。このうち県北・横須賀などではその後も支部教研が継続し、それぞれの支部教研で分科会運営ができるところまでに成長した」とある。これに従えば、県北支部が県下で最も早く、支部教研集会を開催したことになる。
 図書室にある県北支部教研の綴りには、第5次教研の記録集(76年3月発行)が残っている。今では“絶滅危惧種 ”となった、ガリ版刷り33ページの冊子(字体からみると、ガリ版印刷業者に頼んだようだ)だが、これが支部では初の記録集だったようだ。巻頭文に、「支部教研を始めて5年目で分科会をもち、記録集を発表することになった。分科会ができるようになったから記録も出せるのかも知れない」(県北支部長)とあるから、第1回の開催は72年となる。続けて、巻頭文では支部教研の意義にもふれている。
 「支部教研は近くの学校の集まりだ。隣の学校の成果はすぐに影響をもつ。遠い親戚より近くの他人だ。地域の父母との交流、民主団体の交流もしやすい。今回参加した父親が、『こんなためになるものをなぜ親たちに知らせないのだ』という声は痛かった。次回は姿勢をもっとあらためて工夫をしなくてはなるまい」
 記録集として最古と思われるものは、横須賀・三浦支部合同の支部教研集会の記録集(タイプ印刷、20ページ)であろうか。74年11月、都立大学助教授(当時)兼子仁さんを講師に呼び、初めて支部教研を開催し、その講演記録(演題は「教師の教育活動と教育法」)を中心にまとめられている。支部長の挨拶文に「本年度の本部の方針も各支部でこのような集会を開こう…」とあるので、県北支部教研の先駆的な取り組みなどを踏まえ、全支部での教研集会の開催が求められ、その実践化が図られたのだと考えられる。
■ 2日間開催の支部教研もあった
 川崎支部教研集会の第1回開催は79年1月のようだが、その報告集は44ページに及ぶ大部なものになっている。さらに、第4回目となる81年度末の支部教研集会では、教科別・問題別分科会を2日間に分けて実施し、延べ人数で約400人の組合員などが参加していることがわかった。
 一方県北支部でも、川崎支部よりやや早い78年(第7次)から2日間の教研集会を開いており、第11次(81年度)には、問題別・教科別の分科会(のべ33分科会)を年間に各2回ずつ、開催していたこともわかった。4回分を合わせると、参加者数は約440人だったと記録集には記されている。第13次(83年度)の記録集の奥付を見たら、支部教研委員名簿というのがあり、そこに自分の名前を発見。ちょうど30年前のことになるが、月に1回、年間で13回の支部教研委員会が各校持ち回りで行われ、車を持たない筆者は、会議の開催校に行くのに随分と苦労したことを懐かしく思い出した。
 横浜北支部の支部教研報告誌の巻末には、詳細な「支部教研推進委員会活動報告」がある。また「分会教研活動報告」のページもあり、各分会がどのようなテーマで分会教研を開催し、さらに参加者数まで記録されているものもあった。県央支部や湘南支部では、各分会の現況が一覧表でまとめられていた。いずれも80年代はじめのものだが、職場民主化の歴史を見る上で面白い。91年度県央支部教研集会(1日開催、14分科会)には、180人が集まっている。この数字は、最近の県教研参加者数よりも多い。
■ 「教研改革」に向けて
 「(略)どうあがいても輪切りの末端に位置する高校で、生きる望みを失わず、少しずつでも前に進んでいく教師であるためには、いったいどうすればよいのだろうか。そんなことを考えると気が滅入るばかりで、
同じような人間が集まると話題が暗くなってしまう。しかし、話題を変えるだけでは何も変わらない。今、われわれ一人一人に課せられていることは、まず自分で考え、他の教師と意見をかわし、そうした中で現状打開の輪を広げてゆくことであろう。(略)」
 これは、採用されて2年に満たない、ある若手教員が書いたもので、小田原支部発行の『支部教研誌』(手書き印刷の袋とじで、83年発行)の中で見つけた。小田原支部では75年頃より、教研担当者会議が開催されており、月1回の定例会において報告されたレポートがこの教研誌に収録されているようだ。
 先の一文は、ちょうど30年前に書かれたものだが、若い教員の悩みやその胸中が率直に語られている。「生きる望みを失わず、少しずつでも前に進んでいく教師であるためには、いったいどうすればよいのだろうか」との問いかけは、今日にも通じる教員としての思いだろう。「まず自分で考え、他の教師と意見をかわし、そうした中で現状打開の輪を広げてゆく」ことを求めているが、これも今日的課題と言える。
 ところで、ここ3年ほど県教研参加者が減少傾向にあったが、昨秋の第55次教研では150人と盛り返したとあった(「高校神奈川」号外、13年5月)。県・支部・分会教研の活性化・参加者拡大が課題とされているが、さらには教研活動の記録化・共有化も不可欠であろう。支部教研は今日も取り組まれているはずだが、先にもふれたように、21世紀以降の記録集・教研誌が図書室の書架にはあまり保管されていないようだ。この際、バックナンバーについて調査をし、欠落部分の補充ができるとよいと思う。
 県教研は本年、第56次を迎える。第1次の開催は53年1月だから、今年は、「県教研60周年(60~64年は未実施)」という節目の年にあたる。多忙化により、過去を振り向く余裕など全くないかもしれないが、県教研60年、支部教研40年の歴史を総括すれば、「教研改革」の方向性が見えてくるのではないか。
(綿引光友・元県立高校教員)

最近の教育関係雑誌より
県民図書室で購入している雑誌のうち、いくつかを取り上げます。
内容については掲載内容をすべて紹介することはできませんので、一部となります。

☆『季刊フォーラム教育と文化』(2013年春 71号国民教育文化総合研究所編)
特集 どうなる?高校・大学教育改革

☆『くらしと教育をつなぐ We』(2013年6/7月号 184号 フェミックス)
特集:伝えることをあきらめない〔お話〕大富亮さん「電気代一時不払いで、原発にNOという」〔インタビュー〕堀江まゆみさん「発達障害の人たちの支援―違いを認めあってポジティブに生きる」

☆教育科学研究会編集『教育』(かもがわ出版)
4月号 特集1 教師を生きる哲学 特集2 問われる教育委員会
5月号 特集1 授業の魅力 特集2 戦後教育学を考える
6月号 特集 「安倍教育改革」批判佐貫浩「競争・分断・孤立を超える共同へ―安倍内閣の教育改革の本質と方法批判」 <コラム> 佐藤広美「安倍晋三と日本教育再生機構」

☆日本教育学会『季刊 教育学研究』(80-1 2013.3)
橋本萌「1930年代東京府(東京市)小学校の伊勢参宮旅行―規模拡大の経過と運賃割引要求―」

☆『季刊教育法』176号2013. 3(エイデル研究所)
〔特集〕学校近隣トラブルをどう解決するか」〔今日の焦点〕大阪府の人事評価/桜宮高校生徒自殺事件

☆POSSE(2013年 .3vol.18 NPO法人POSSE)
特集 ブラック企業対策会議

☆子どもの権利条約総合研究所編集『子どもの居場所ハンドブック』
(子どもの権利研究 第22号 2013.2 日本評論社)

☆『学校図書館』(全国学校図書館協議会)
5月号 特集Ⅰ 理数教育と学校図書館 特集Ⅱ 読書感想文指導の取組み
6月号 特集 学力向上と学校図書館

☆『季刊 高校のひろば』(2013年春 VOL.87 日髙教・高校教育研究委員会 旬報社)今号で終刊
特集 高校教育という希望

☆『教育再生』(2013年5月号 日本教育再生機構)
〔特別インタビュー〕 伊藤隆 聞き手:八木秀次「安倍首相が検定見直しを明言 証拠のない自虐記述を教科書に載せない方法」

☆『季刊 人間と教育』(2013 春 77号 旬報社)
特集:「声をあげる文化」をとりもどす

☆日本大学教育学会紀要『教育学雑誌』(2013 第48号)
<研究論文>香川七海「大正時代における修身教育の批判論に関する考察―大島正徳の著作『自治及修身教育批判』を手がかりとして―」

☆『家族で楽しむ 子ども農業雑誌 のらのら』(2013年夏号 農文協)
特集 きみにもできる!あこがれのスイカ&メロン栽培

☆『DAYS JAPAN』(発行編集:広河隆一)
5月号 富岡町実測汚染マップ 第9回DAYS国際フォトジャーナリズム大賞受賞者発表
6月号 特集 放射線と健康障害の真実―北海道がん治療センター西尾正道名誉院長が語る

☆『世界』(岩波書店)
5月号 特集 人間らしい生き方が消えていく―待ったなしの改革とは
6月号 特集「96条からの改憲」に抗する

☆『切り抜き情報誌 女性情報』(2013. 4 3/1~3/31 パド・ウイメンズオフィス)
特集 東日本大震災から2年

☆『女も男も ―自立・平等―』(2013.春夏号 労働教育センター)
「被災地教職員・自治体職員の震災後ストレスとこころのケア」

☆『法学館憲法研究所報』(第8号 2013年1月)
巻頭言 浦部法穂「教育と憲法について思う」 リレー対談「日本社会と憲法」

余瀝
 安倍内閣が朝鮮高校無償化を省令変更で制度的に否定し、黒岩知事は北朝鮮の核実験を理由に「県民の理解が得られない」と朝鮮学校の補助金カットを打ち出しました。この問題に長く関わってこられた田中宏さんが何冊もの本を積み上げ、これが神奈川の取り組みの歴史だと講演会でおっしゃったのが強く印象に残りました。巻頭の山根さんにはその歴史を繙いていただきました。書評2冊から直近の状況がわかります。ぜひ学習の素材にしてください。HPの変更に伴い、紙面を刷新し、新しい連載も始めました。

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